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2008年10月31日

特別号 「現場からの医療改革推進協議会」第三回シンポジウム抄録セッション2 コメディカル問題

2008年10月31日発行


    医療再生を目指して 患者と医療者の信頼関係再構築

11月8日(土)
2)コメディカル問題 11:10~13:00
 福原 麻希(ジャーナリスト)
 児玉 有子(看護師, 東大医科学研究所)
 早坂 由美子 (ソーシャルワーカー, 北里大学病院患者支援センター部)
<総合討論>
 黒岩 祐治(ジャーナリスト, フジテレビ)
 嘉山 孝正(医師, 山形大学 医学部長)

 誌上発表
 安部 能成(作業療法士, 千葉県がんセンター)

●コメディカル不足
 福原 麻希(ジャーナリスト)

 2003年から、私は病院内で働くコメディカルを集中的に取材しています。きっかけは、患者さんの取材に行くたびに「体もつらいが、心もつらい」「病気について悩んでいるが、どこに相談すればいいかわからない」という話を聞いていたからです。患者は診察室で目の前にいる医師に訴えますが、医療現場はあまりにも多忙ですべてをサポートできません。でも、コメディカルで対応できることは多くあります。そこで、コメディカル(ソーシャルワーカー、がん看護専門看護師、薬剤師、放射線技師、細胞検査士、管理栄養士、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、臨床試験コーディネーター、心理士、リンパドレナージセラピスト、音楽療法士、医療コーディネーター、遺伝カウンセラー、フェイシャルセラピスト)の仕事内容を詳細に聞き取り、機会あるごとに本や記事でその人物像とともに紹介してきました。また、患者側にもたびたび取材し、コメディカルのもたらす効果やその必要性について確認しています。

 取材をするたびに、それぞれの職種の専門知識の深さ・技術の高さには驚くことばかりで、いまでは「コメディカルの働きこそが医療の質、ひいては病院の質を向上させる」と確信しています。ところが、実際の臨床現場では、▽病院にコメディカルが足りない、人員配置が手薄である、▽人材がいてもうまく活用できていない、▽経営者や医師がそのスキルやキャリアを評価していない、などが起こっています。それは多くの医療関係者が、コメディカルの仕事内容を漠然とイメージできても、「どんなときに、だれに引継ぎすれば患者のニーズに応えられるか、本当はよく知らない」と答えていることが原因でしょう。

 私は「治療や闘病で困ったときは、コメディカルに相談しよう!」と言える社会づくりを提案します。さらに、近年、医療がより専門化したこと、「患者中心の医療」を実現するため多くの病院でチーム医療が導入されたことから、「診療現場で患者と医師をつなぐ」「闘病中の患者の心のケアをサポートする」という役割の人を増やすことが、医療現場で医師の疲弊を緩和させ、医師不足を解消する方策になりうるとも考えます。

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●現場からの看護学改革
 児玉 有子(看護師, 東大医科学研究所)

 看護職が取り組まなくてはいけない問題に、医療機関での雇用数増加と、キャリアパスの改善があります。
「雇用数の増加」

 今の日本の制度下では、病床あたりの看護師配置基準に応じた診療報酬のみが病院の収入です。したがって、基準以上に雇用しても人数に見合う収入が見込めないため、最低限の人数しか雇用されていません。この解決策には、病床あたりの看護師配置基準を引き上げることも考えられます。しかし、「現場の仕事量と人的資源を考慮し、現場レベルの管理職者にその配置を任せる。」という看護師配置の世界的なコンセンサスに沿うのであれば、ある基準で画一的に統制されるのではなく、現場の判断で雇用数を増やせるような制度への抜本的な改革が必要と考えます。 さらに現在の制度下では、常勤(=3交代が可能な人)という条件があるため、看護師不足を助長しています。この問題の解決には、短時間正社員制の導入により雇用を増やすことも解決策の一つになると考えます。

 もちろん、雇用の増加は病床あたりの看護師数の増加につながります。看護師の病床への重点配置は医療安全の確保に必須の条件です。

「知識、技術のアップデートが可能な環境-キャリアパス」

 今回のセッションを行うにあたり、看護職へのインターネットを通してアンケートを実施しました。寄せられた意見の中で特にお伝えしたいことは、「もっと勉強したい」という願いが受け入れられずにベッドサイドを離れようとしている優秀な看護師がたくさんいることです。

 看護師はある専門科に所属しているのではなく、病院に就職しています。就職時の配属は、本人の希望に添うよう配慮はされますが、100%叶うわけでもありません。また、配属された科で専門性を高めようと努力しても、突然異動を命じられることもあります。これは、個人の意志で専門科を選択し経験を積む医師のキャリアパスと大きく異なる点です。また、医師は個人の裁量で研修を受けたり講習を受けたりすることが可能な環境で、かつ特別なコースを経ずとも個人の努力で、認定や専門医を取得しています。しかし、ぎりぎりの人数でシフト勤務をやりくりしている看護の現場では、キャリアアップの為の時間すら保証されない等、個人のキャリアアップが組織の都合に左右される側面あります。また、専門看護師等の取得には一時臨床を離れ、特別なコースを経る必要も有ります。専門職としての一個人のキャリアアップが尊重されない環境は、中堅看護師の士気の低下を招き離職を加速させる一つの理由になっています。看護師自身もキャリアアップの方法を考え直して行かなくてはいけません。

 最後に、看護師不足についての新たな問題として、医学科定員増加があります。医学科定員増により、今後は現在看護学科へ入学していた高偏差値群が医学科へ進学することが予想されます。実際に看護学科の志望理由が「医学科を落ちたから。」という人も少なくありません。現在の高偏差値群がいなくなることは、看護職種のリーダー養成に大きな影響をおよぼします。現状においても全体の養成数は定員割れしており、また看護職を目指す学生の偏差値は非常に幅が広い状況です。医学科定員増により上位群がいなくなった後にも、現状もしくはそれ以上の看護職者の質を担保するためには、基礎教育年限の延長や教育に関わる人材を増やすなどの対策が必要と考えます。

 看護職のリーダー層の人材確保は看護師不足のみならず、新たな医療界の重要課題として取り組まなくてはならないと考えます。

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●患者さんや家族の「心」と「生活」を支えるソーシャルワーカー
 早坂 由美子 (ソーシャルワーカー, 北里大学病院患者支援センター部)

 病院で働くソーシャルワーカー(以下SW)とは、病気や障害によって生じる生活上の相談に対応する専門の職種です。病気になるということは、その人が今まで経験しなかった様々な不安や悩みを抱える日々が始まることでもあります。それまでは普通に対処できていたことができなくなったり、ご家族もそのような患者さんを支える立場となったりするため、生活を変えていく必要が生じてきます。そのようなときには、第3者の支援が必要になることが多くあります。SWは、患者さんや家族の「心」と「生活」を支える視点から様々な相談に応じています。具体的な相談例は次の通りです。

・医療費はどのぐらいかかるのか?支払いに不安がある。
・病気で落ち込んでしまった。誰かに話を聞いてほしい。
・一人暮らし。がんになった。今後どのような経過をたどるのか相談したい。
・脳卒中で倒れた。どのようなリハビリ病院があるのか?どうアプローチすればいいか。
・高齢の夫との二人暮らし。夫は介護が必要だが、不安で自信がない。
・医療ケアが必要な障害児がいる。一時預かってくれるところはないか?
・透析を始めた。どうしたら、今まで通り仕事が続けられるか。

 現在の日本は高齢者社会を迎え、社会保障費の抑制、医療費の削減は国の命題です。そんな中、制度は目まぐるしく変化し、急性期の病院のほとんどは「平均在院日数短縮」という目標に向かってまい進しています。そのため入院患者さんは、自分が思うより早期に転院や退院をしなければならなくなり、戸惑い、不安を抱いています。SWはこのような患者さんや家族に「今後どう生活していきたいのか?」という気持ちをうかがい、その気持ちを尊重しながら、生活の再構築するための支援を行っています。一緒に考え、最新の地域の社会資源やサービスに関する情報を提供し、いくつかのことに折り合ってもらいながら、患者さんや家族が自己決定するプロセスを支援しています。今回は二つの事例の支援「退院後の在宅療養について」「家族との関係の維持に悩む患者について」を紹介します。

 最後に昨年行った日本医療社会事業協会の退院支援調査の一部を報告し、SWが行う「機関同士の連携を生かした在宅支援」について紹介します。

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●コメディカル不足も医療崩壊を促進している
 嘉山 孝正(医師, 山形大学 医学部長)

 医師数不足とともにコメディカル不足も日本の医療崩壊を加速させている。病院に勤務する100床当たり従業者数は、イギリス740人、アメリカ504人、イタリア307人、ドイツ204人に対して、日本はわずかに100.8人で諸外国と比べて1/4に過ぎない。日本の病院は諸外国のコメディカル数に対し、圧倒的なマンパワー不足である。看護師でみてみると、欧米のそれと比較し約7倍のひらきがある。また、薬剤師も同様に約5倍の開きがある。看護師、薬剤師の場合には養成数は欧米のそれと変わりがないが、病院での雇用数が不足している。更に医師ほどではないが職場環境の劣悪さが原因で、看護師が社会で活躍していない所謂潜在看護師数は約50万とも60万人といいわれており、この人材の活用を推進しなければならない。事務職も欧米と比較し約1/7と不足している。

 このようなコメディカル数の不足は医師、看護師、薬剤師が本来施行すべき仕事以外の仕事を日常的に施行せざるおえない状態になっている。特に頑張ってしまう医師にその仕事が負荷となっている。

 医療現場で、このようなコメディカル不足が一番影響を受けるのは医療安全であり、とりもなおさず国民、患者さんである。日本の医療者は欧米の医療者より頑張ってしまうので、米国の資料が日本にそのまま当てはまるわけではないが、病床当たり看護師、薬剤師などのコメディカルの人数が多い方が医療の安全性が高い結果が出ている。看護師の受け持ち患者が一人増えると死亡率が約7%増える。また、病棟薬剤師が100床当たり2.5人増えると死亡率が1000人当たり約20%減るという結果がある。

 医師数の増員とともにコメディカル数の病院での増員が医療の質を確保するには不可欠である。

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●がん患者に対するリハビリテーションは真空地帯
 安部能成 (作業療法士, 千葉県がんセンター)

 がん患者にリハビリテーションは必要だろうか? 日本では、一般に「がんは悪性で死亡率が高いから、リハビリする余地はないだろう」と考えられているらしい。

 日本のがん治療の総本山は国立がんセンターであろう。そこには数多くの診療科目が備えられているが、リハビリテーション科はない。リハビリテーション専門のスタッフとしては、中央病院と東病院を兼務している理学療法士が1名配属されているのみである。先進国と目されている国のナショナルセンターで、リハビリテーション部が置かれていないのは我が国だけではないだろうか? 北欧の小国・人口5百万人のデンマークでさえ、ダーランドに国立のがんリハビリテーションセンターがある。

 1980年、我が国の医学的リハビリテーションのパイオニアである砂原はその著書の中で、傷痍軍人に始まる整形外科疾患から、成人病としての脳卒中に対象者が拡大する証左として、その生存率が50%を超えたことを挙げている。21世紀を迎えた今日、我が国のがん患者の5年生存率は50%を超えている。砂原の説に従えば、がんリハビリテーション開始の時期に到達したはずである。しかし、その実態はいかがであろうか?

 1990年から15年間の日本リハビリテーション医学会、理学療法学術集会、作業療法学会の一般演題における、がんリハビリテーション関連演題の調査をしたことがある。各回400~800演題にがん関連演題の占める割合は、いずれの学会においても1%前後だった。つまり、99%はがんと無関係である。その逆に、この間の日本癌学会、日本癌治療学会では、ほとんどリハビリテーション関連演題が見られない。すなわち、我が国においては、リハビリテーションの対象にはがん患者が含まれず、がん治療にはリハビリテーションが含まれない状況にあり、あたかも真空地帯のようである。

 本当に、がん患者にリハビリテーションは必要性ないのだろうか?筆者は南関東の県立がんセンターで、専従職員として孤軍奮闘、がん患者のリハビリテーションに従事して14年目になる。今日までにリハビリテーション実施回数は3万件を越えた。データの揃っている過去12年間に限っても、日平均取扱数(4→16)、月平均取扱数(70→275)、年平均取扱数(850→3280)、年間新患紹介数は(58→216)、いずれも4倍増である。この事実からみて確実にニーズは存在している。

 たとえば、日本人に多い胃癌では、胃切除術後に歩行障害となりリハビリテーションに紹介されてくる症例がある.運動機能に障害はない.ところが、血液検査の成績をみると総蛋白もアルブミンも低値で、栄養不良を示している.術前と同様の食生活をしていたため消化しても吸収できず、栄養不良状態から筋力低下をきたし、結果的に歩行障害となっていた。この場合、胃切除術後の胃機能障害に対し、食事指導と活動療法を組み合わせたリハビリテーションを実施しないと、生活の再建、社会復帰はおぼつかない.がん患者にはリハビリテーションが必要不可欠である。

 このようなことは患者のみならず、その家族、治療関係者、ひいては市民社会にとっても大きな損失ではないだろうか?リハビリテーションがないために、がん難民化している事態が今日も続いている。

臨時 vol 155 「医療改革:経済学の知見を今活かすとき」

2008年10月31日発行


                 東京大学経済学研究科
                 松井彰彦

 医療、教育、福祉の三分野は、その必要性にもかかわらず経済学の知見が生かされていない代表的分野と言ってよい。本稿では、医療に焦点を絞り、一経済学徒の私見を述べることとしたい。

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 いよいよ風邪をひきやすい季節。小児科のある病院では、鼻をすする子供たちをよく見かけるようになってきた。小児科をはじめ、医療現場が冬の時代に入ったといわれる。人口当たり医師数やGDPに占める医療費の割合は先進国で最下位クラスにもかかわらず、極めて低い診察料負担のおかげで一人当たりの受診回数は突出して多く、乳幼児死亡率も最も低い部類に属するという。これを支えているのが、医師たちの身を削るような超過労働である。加えて、近年増えてきた医療訴訟。少子化の影響があるとはいえ、激務に加えて、リスクを伴う産婦人科や、診療報酬が少ない小児科の休止がここ数年他の診療科を引き離している。もはや医師不足は過疎地だけの問題ではなくなりつつある。何をどう変えれば医師不足を解消できるのであろうか。

 「日本全体で見た医師不足は、『急性期医療を担う医師が実際の急性期医療に割く時間を十分にとれない危機』と見なしてよい」と述べるのは、慶応義塾大学教授の田中滋氏(東洋経済2007年11月3日号)である。「書類の記入や患者に対する説明に費やす時間が大幅に増えている。…補助人員を手当てできるような報酬の導入とともに、大病院の外来の初期診療は、地元の開業医も交代で分担する仕組みを普及させるべきである」。田中氏の主張は医師全体の不足というよりは、大病院に所属する勤務医、その中でも一部の診療科に属する医師の不足を指摘したものといえよう。医師の絶対数というよりその配置に問題ありというわけである。一橋大学教授の井伊雅子氏は、東京23区の多くが小児医療費の窓口負担をゼロにしていることを挙げ、「小児医療はただでさえ人手不足なのに、…必要以上の受診を招いている」とし、肝心の急性期医療に医師の手が回らないことを危惧する。

 患者やその家族に対する説明は必要であるが、「最近、医療現場にもクレーマーが増えている」と嘆くのは医師で作家の久坂部羊氏(中央公論2007年12月号)である。同氏は、一般の人は、「つい医療は安全で当たり前だと思ってしまう。一方、医療者は、医療が決して安全ではなく、偶然に左右されるものだと知っている。ここに…温度差が生じる」とその原因を述べる。そのギャップがときとして医療訴訟を惹起する。民事の新受件数で見ると、ここ2年ほどは前年を下回ったとはいえ、平成元年の350件程度から昨年の900件超と、訴訟件数は大幅に増加し、刑事事件と相俟って医師の萎縮効果を招いている。刑事告発について、賛否両論を載せ、その是非をわれわれに問いかける論壇誌も見られる。医師の自浄作用を担保したうえでの話になるが、「闇の中にあった医療事故の一部がようやく表面に出始めた」とする元福岡高検検事長の飯田英男氏(2007年論座12月号)さえも認めるように、「刑事処分の行使を必要最小限にとどめるべき」であろう。

 医療に関わる問題は、専門性が高いゆえに一般の人間にはなかなか理解しづらい。その結果、「白い巨塔」問題が発生するかと思えば、それを防ごうとする風潮に便乗する理不尽なクレームも発生しやすい。このような状況下ではいわゆる市場理論が説く市場メカニズムは有効に機能しないことが経験的にも理論的にも指摘されてきた。

 この問題を、経済学では情報の非対称性と呼び、様々な研究が蓄積されてきた。たとえば、金の卵と金メッキの卵を持っている売り手がいるとしよう。この二つを見分ける力が買い手の側になければ、たとえ、買い手が金の卵をほしがっていて、売り手が金の卵を持っていたとしても取引が成立しない。売り手が必死に金の卵であると証明しようとすればするほど、買い手はだまされるのではないかと疑心暗鬼になり、結局うまく取引ができないのである。

 このような状況を打開するために、いくつかの方策が採られることがある。中古車の市場であれば、日本では中古車ディーラーが発達し、かれらは目利きであって、中古車の質を見分けることが可能である。個々の中古車の売り手は評判など気にしないが、ディーラーは、沢山の自動車を取引するので、評判が落ちないよう品質管理に傾注する。買い手はディーラーの評判を見るだけで、あとは中古車の品質はある程度ディーラーを信用して購入することになるのである。

 医療の問題になぞらえるならば、患者教育が極めて重要なものとなるであろう。前述の久坂部氏の言うように、リスクに関する教育がきちんとなされるだけでも、大きな改善が見られるであろう。この教育は、医療機関のみに押し付けるのではなく、中等高等教育機関における、不確実な現象への対処という形での教育が必要となってくるかもしれない。

*** 

 医師の数や一部の診療科で診療報酬を増やすための施策も先立つものがなければ話が始まらない。税と社会保障の一体設計を唱える声もある。「高所得者に恩恵が偏りばらまき政策になりがち」な現在の所得控除を「税額控除に変えるとともに、控除できない低所得者層には還付・給付を行う」必要があるという。これに対し、東京大学教授の大沢真理氏(世界12月号)は、税と社会保障を分離する「『三つの福祉政府体系』の樹立を提唱」する。実現可能か否かはともかく、「逆進性を解消して社会保障収入の調達力を高める」方向は検討に値する。

 経済原則に従えば、ある診療科の報酬があまりにも低く抑えられれば、その科を志望する医師は不足する。医師にモラルを求めると言っても同じ人間、限度がある。理念はともかく、正当に評価されない診療科は志望者もなく、つぎつぎと廃止されてしまう恐れがある。日経新聞(2008年10月24日付)によれば、医師の側からも、「医療機関や病床の役割分担を巡っては『計画経済のような統制は難しい』(東大医科学研究所の上昌広特任准教授)との指摘がある」という。政府による統制ではなく、診療報酬や役割分担に適度な柔軟性をもたせることを検討すべき時期に来ているのではないだろうか。診療報酬の見直し作業が進んでいるものの、それは統制価格の変更に他ならない。社会主義国の崩壊を引き合いに出すまでもなく、統制価格のみでシステムが機能することはあり得ない。

 診療報酬の自由化の話をすると、必ず出てくるのが、金持ちを優遇するのか、といった批判である。これは、医療費控除やバウチャー支給などの方策で改善すべき問題であり、価格統制を正当化する理由にはならない。

 医療、教育、福祉の三分野は、その必要性にもかかわらず経済学の知見が生かされていない代表的分野と言ってよい。統制経済の弊害によって疲弊した現場が崩壊する前に、なすべきことは数多く残されている。チャーチルではないが、民主主義同様、市場制度は最悪の制度かもしれない。しかし、そこには、これまでに考えられてきた様々な制度を除いては、という但書きがつくのではないだろうか。福祉と経済の関連については稿を改めて議論したい。

 注:本論は2007年11月25日付けの日経新聞朝刊「経済論壇から」の小生の原稿を加筆修正したものです。内容に関するすべての責任は筆者にあります。

2008年10月30日

臨時 vol 154 「パリの在宅医療 ―在宅での化学療法の提供」

2008年10月30日発行


        東京大学医科学研究所
        先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門
        児玉有子


 パリにあるHospitalisation A Domicile (HAD:在宅入院連盟;Paris)を訪問し、そこに勤務するダース医師とブラン看護師からお話を伺いましたので、ここに報告いたします。

 今回の訪問は、「がん医療における医療と介護の連携のあり方に関する研究」(班長:小松恒彦帝京大学ちば総合医療センター血液内科准教授)の一環として、フランスにおけるがん医療と介護の連携について現地調査を行ったもので、これはその報告の一部になります。


【HADの概要】

 HADは小児~終末期および周産期(分娩は除く)の患者に対して在宅で病院と同等の医療を提供している機関で、パリとその近郊をカバーしています。パリの人口は約215万4000人(2005年)ですが、この範囲を成人では17のセクターに、小児では2つのセクターに分けて、訪問看護師の担当を決め活動をしています。一方、産科は全地域を1つのセクターで担当しています。この結果、HAD全体では合計820人の患者の受け入れが可能で、医師は15名、登録訪問看護師は300人、医療行為はできないが身の回りの世話を担当する看護助手が150人働いています。

 ちなみに、HAD以外にパリで在宅医療を提供している機関には民間非営利団体のサンテサービスがあり、1200床受け入れています。


【HADを受診する患者の30~40%はがん患者】

 HADを受診する患者は多岐にわたります。成人は全ての診療科を扱い、その内容は、抗がん剤治療、在宅ホスピス・ケア、ターミナル・ケア、複雑なガーゼ交換、高齢者のケア、神経疾患等です。一方、小児はがん(特に白血病)および小児糖尿病とその教育を、産科は分娩以外、主に高リスク妊婦の産前産後のケアを担当しています。なかでも注目すべきは、がん患者の化学療法が在宅で普通に実施されていることです。


【HADに働く医師の役割はコーディネート。医師全員が兼業】

 HADでは15名の医師が働いています。820床に15人ですから、少数の医師で多くの患者を診ていることになります。このような医療提供が可能になっている理由は、彼らの主な役割が在宅医療のコーディネートに徹しているからです。具体的には、医師は適切な医療行為を適切なタイミングで実施するように在宅看護師に指示し、自分自身で出向くことはあまりないのです。この状況は、日本の在宅医療とは大きく異なります。

 では、HADに勤務する医師は、どのようにして自らの医療レベルを維持するのでしょうか。コーディネートしか行わなければ、医療レベルが低下してしまいます。この問題を解決するため、HADでは全医師がHADと他の医療機関を掛け持ちしています。半日はHAD、残りの半日は高度専門化した医療機関に勤務することがHADから義務づけられているのです。ちなみにフランスでは、ほとんどの医師が1つの医療機関専属ではなく、2つ以上の職場を掛け持ちしているそうです。その典型的なパターンは、高度医療機関と地域で開業という形です。


【HADの登録訪問看護師は専従。専門看護師や認定看護師の資格は不要】

 一方、HADの看護師は、医師とは異なり専従です。HADの看護師になるために求められるのは、他の病院での勤務経験があることと、何らかの疾患に対する専門的対応ができることです。専門看護師や認定看護師などの、HAD以外の団体が認証している資格は求められていません。つまりHADの採用担当者が採用試験を通じて、ある分野での経験、知識、判断力、技術を兼ね備えていると判断すれば、HADで働くことができるのです。ただし、HADでは採用後に長時間のトレーニングを義務づけており、これを修了した看護師だけが一人で患者宅に出向くことができることになってます。


【在宅化学療法――初回は訪問看護師の立ち会いの下、病院で実施】

 今回の視察では、特に在宅化学療法についてのお話を伺いました。

 HADがケアしている患者が化学療法を受ける場合、初回治療は入院で行われます。患者が入院したら、まずカテーテルや埋め込み型のポートが留置されます。これは、化学療法の投与経路はカテーテルに限定することが法律で規定されているためです。緊急の化学療法を除き、すべてこの手順で実施されます。

 化学療法は、病院の腫瘍専門家により作成された「プリスクリプション」に従います。これは日本のクリティカルパスに相当するもので、治療の全過程を規定します。例えば5コースの予定の化学療法であれば、5コース分が記載された「プリスクリプション」が治療開始時に発行されます。「プリスクリプション」には抗がん剤のレジメンだけでなく、副作用への対処も記載されます。ちなみに在宅化学療法で抗がん剤を投与する場合には、そのルートはカテーテル(ポーターカット)からの持続点滴等に限定され、静脈注射(IV)は禁止されています。さらに、すべての行程が2時間以内に終了するように配慮されます。病院での初回投与で大きなトラブルが発生しなければ、在宅での化学療法に移行します。

 病院から在宅治療への移行は、我々が報告した日本の状況と概ね同じでした(Kodama et al., Int J Hematol. 2007 Dec;86(5):418-21.)。ただ、日本とフランスで違っていたのは、HADでは病院での初回抗がん剤投与に訪問看護師が立ち会うことです。日本には退院時共同指導の取り組みはありますが、初回の治療時にベッドサイドに出かけることはあまり見られないのではないでしょうか。このような手順を通じ、訪問看護師と病院のコミュニケーションを円滑するように配慮しているようです。

 ところで、フランスではほとんどの抗がん剤が在宅で投与可能ですが、なかには禁止されている薬剤もあります。たとえば、タキソールです。これは、在宅で使用可能な抗がん剤について、公立病院の腫瘍専門医を対象に実施したアンケート調査の結果を反映しています。一方、タキソテールやベルケードなど、毒性の強い薬剤であっても在宅でも使用可能なものもあります。


【在宅化学療法の手順――実施の指示は、関わっているどの医師が出してもよい】

 在宅で実施される2コース目以降の化学療法はどうなっているのでしょうか。病院の腫瘍専門医とHADの医師は、「プリスクリプション」を双方向で電子共有できるようになっています。そのため双方の医師ともに、事前の検査データを見て、実施可のサインと実施指示を出すことができます。これは、化学療法のタイミングを逃さず実施するために、処方した腫瘍専門医以外にHADの担当医が化学療法を開始できるように配慮したものです。以前は、各病院ごとの処方箋の形式の違いが共有化の障害となっていたようです。しかし現在では、シミョーという共通ソフトの導入により統一化が進んでいます。


【在宅療法は訪問看護師の手により実施】

 在宅化学療法における抗がん剤のミキシングやポートへの刺入・抜去は、訪問看護師の手により実施されています。また、ほとんどのケースでは刺入から抜去まで看護師が立ち会います。2009年1月1日からは、化学療法開始から終了までの2時間、看護師が立ち会うことが法的に義務づけられます。

 さらに現在は、患者宅で抗がん剤がミキシングされていますが、2009年1月1日以降は、特定の病院で集中的に抗がん剤を無菌的に調剤しなければならなくなります。パリにおいては、南部にあるジョンシポンピドゥヨーロッパ病院が、HADで扱うすべての抗がん剤の調剤を担当し、宅配業者により冷蔵にて運搬されます。このシステムは24時間稼働可能と言われ、視察に行った際はテスト中でしたが、特に冷蔵搬送について検討しているようでした。このようにフランスにおいても、病院の機能集約化が進みつつあるようです。


【副作用も約束処方に従い看護師が対応】

 在宅での化学療法実施後の副作用に対しての薬物療法は、前述の「プリスクリプション」に書かれている内容(約束処方)に沿って、担当看護師の判断で対応しています。同じ薬の投与についても、2回までは看護師の判断で使用してよいことになっています。連続して3回以上使用する場合には、HADに待機している医師に連絡をとり、その指示を仰ぐことになっていますが、「ほとんどが看護師与薬の範囲で対応できている」とのことでした。


【費用】

 さて、費用はどうなっているのでしょうか。HADの費用はDRGで一人1日180ユーロまたは280ユーロと定められています。抗がん剤を使用した場合には、これらに薬剤費用が出来高払いされています。

 ただ、この180または280ユーロはいずれもHADへ支払われます。したがって、病院の腫瘍専門医が在宅での化学療法に関与しても、今のところ対価は支払われていません。将来的には、ドクターフィーでの対応が考えられていますが、まだ実施の目処がついていないようです。勿論、初回の入院治療の費用は、病院へ支払われます。

 一人1日180または280ユーロは、高く感じられるかも知れません。しかしHADのブラウン看護師は、「通院に使用する医療搬送車両の往復代金を考えれば、在宅は高コストではない」と語っていました。ちなみに医療搬送車両の代金はタクシーのような料金体系で、パリ近郊の首都圏では、2008年9月の報酬改訂では最初の5Kmまでが12ユーロ53セント、以降、1Km当たり0.83ユーロとなっています。


【最後に】

 フランスにおいても、在宅医療の拡大のための施策が実施されていました。在宅医療の広がり方は日本と似ていて、パリのような都市部は在宅医療システムが確立しつつある一方、地方での普及は十分ではありませんでした。HADの受け入れ可能数を比べても、パリでは820人可能なところ、パリ以外の地域ではわずか30人程度でした。

 フランス政府は今後、公的機関による在宅医療サービスを20,000床まで増やし、病院と在宅医療の比を2対1まで高めようとしているようです。さらにHADの運営形態についても、理学療法士や作業療法士などコメディカルが参画しての多機能型を推進しているようです。

 以上のように、日本と似ているところが多いフランスの在宅医療ですが、化学療法の実施やその運用システム、さらには病院との連携など、学ぶことも多くありました。


《謝辞》
 現地にて日程調整から通訳、その後も種々の情報を提供して頂いております奥田七峰子様(http://naoko.okuda.free.fr)には大変お世話になりました。また、フランスでの調査およびその後のフォローアップをいただいております在フランス日本国大使館一等書記官の岡本利久様。お二人の存在無くしては、これほどまでに充実した視察にはならなかったものと思います。改めまして感謝申し上げます。

2008年10月29日

臨時 vol 153 「医療に対する「当たり前」感を駆逐するために」

2008年10月29日発行


                            橋本 岳(衆議院議員)


■医療体制は崩壊を始めている

 日本の医療体制は、既に崩壊を始めていると考えています。これまでは医師や看護師などの方々が、場合によっては文字通り睡眠時間を削って、医療体制を支えてこられました。その成果として、世界一の平均寿命を低い負担で達成できたのです。しかし、逆にいえば慢性的に勤務医らが不足しているがゆえの過重労働であったわけであり、そこに臨床研修医制度の導入による大学病院(医局)の医師引き上げや、国の財政的事情による医療費抑制策、医療に対する過剰な訴訟などが重なった結果、救急、産科、小児科、外科等のハイリスクな現場、そして地域からの医師離れが起こり、医療崩壊を招いているものと考えています。これまで努力と頑張りで支えてきたものが、それぞれのきっかけで限界に達し、折れたり燃え尽きてしまったのが現状でしょう。

 私の地元である岡山県倉敷市では、川崎医科大学附属病院および倉敷中央病院という二つの大病院が核となり、その周りに中規模の病院や診療所等が存在する比較的恵まれた環境にあります。しかし、それでも、市立児島市民病院の診療科縮小や三菱水島病院の病棟閉鎖といった形で、じわじわと影響が出ています。


■三つの対策

 これに対し、私は現時点では大きく三つの対策が必要だと思っています。

1) 医療者の頑張りに報いるための、医療への資源配分の強化
2) 医療者に敬意を表し、医師と患者の信頼関係を結びなおす
3) 国民皆で医療を支えるため、皆保険制度を維持する

 1)と3)は、医療の政策的・財政的枠組みについての問題であり、政治の場で既に多くの議論が行われています。1)については、やはり対GNP比総医療費をOECD平均(9%)以上に上げるくらいの対策が必要ではないでしょうか。もちろん、その負担についても考える必要はあります。また3)についても、長寿医療保険制度は大きな議論を巻き起こしましたが、高齢者の医療を支えていくために何らかの仕組みが必要なことでは、概ねコンセンサスを得ていると思います。


■「医師と患者の信頼関係の構築」の重要性

 私が今後ますます取り組みが重要になると考えているのは、2)の「医師と患者の信頼関係を取り戻す」です。1)は、いま起こっている医療崩壊に対して緊急に必要な措置と言えるのに対し、2)は体質改善のようなものだと言えるでしょう。過剰な医療訴訟、モンスターペイシェントの存在、コンビニ受診、救急車の濫用……といった問題の数々が、医療予算増で解決するとは思えません。むしろ、これらの問題を解決せずして医療費を増額させたところで、穴の開いたバケツに水を汲んでいるような観があります。また、現在大きな議論を巻き起こしている医療安全調査委員会の問題も、煎じ詰めるところ、いかにして医療の安全性を向上させ信頼感を回復するかという点がポイントとなります。いずれも根っこには、患者側と医療者側の信頼関係の問題が横たわっているのです。2)の信頼関係の再構築こそ、改めてゼロからのスタートを切るべき課題だと断言します。

 ここまで言い切ると、医療サイドの方々から「もう頑張っている!」というお声が聞こえそうな気もします。確かに、それぞれの診察室内において患者さんに丁寧かつ十分な説明を行い、インフォームドコンセントをとることに個々の医師や病院・診療所として努力されていることには、全く疑いを挟みません。もちろん必要な取り組みです。しかし、社会現象たる上記の諸問題への対応としては、それだけでは実は手遅れです。

 理由のひとつは、「いつ受診するか」という、診察室以前の問題であることが多いこと。

 そして一方、診察室内には“実体のない信頼関係”があります。本来、人と人との信頼関係というのは、時間をかけたコミュニケーションの末にはじめて成立するものです。しかし診察室で、患者さんは既にケガや病気という身体的に苦痛かつ不安な状態にありますから、専門知識と技術を有するであろう医師を、とりあえず無条件に信じるしかありません。だとすれば患者さんは「治してくれて当たり前」と思うほかないのです。もちろん医師や看護師の方々たちも、患者さんが嘘を訴えているとは思わないでしょうし、実際、患者さんの信頼に応えるべく治療にあたることになります。こうして相手のことを知らないまま、そこに最初から信頼関係があることになっているのです。ただし問題は、予想外のハプニングが起こったとき(医師が誠実に対応していても起こり得ます)。往々にしてその脆さを露呈することに繋がります。院内メディエーターがいれば多少状況は変わるかもしれませんが、やはり事後の手当てにしかなりません。

 以前、あるところで「ありがとう」の対義語は「当たり前」だ、と聞きました。「当たり前」という言葉は、医師個人から医療全体に対してまで著しく尊厳を傷つけます。また患者自身にも良い結果を招く言葉ではなく、いずれにとっても不幸な状況をきたします。この「当たり前」感の駆逐こそ、現在の医療が社会に対して直面している大きな課題というべきでしょう。


■どうやって「当たり前」感を払拭し、信頼を再構築するか

 では、どうするか。そのためのポイントは、3つあります。

 まず、ひとつ。信頼関係を持つ対象を「患者と医師」という診療室内の視点から、「社会と医療」という視点に広げて考える必要があります。要するに一般の人を相手にすべき、ということです。理想としては、信頼関係は患者になる以前から、日頃のお付き合いの中から築いておくことができたらよいのです。(なお、忘れられがちですが、大半の医療が保険医療として行われているわけですから、月々の保険料を納める被保険者かつ納税者でもある健常の一般の方々の信頼を得ることは、やはり医療にとって必要なことです。なお言えば、医療安全の問題に関して刑事訴訟法や刑法等の改正の議論がありますが、もし手をつけるとなればそれこそ国民的議論は欠かせません。「社会と医療」には、そういう意味もあります。)

 しかし、日頃の付き合いというのは限られた人にしかできません。そこで2つ目のポイント。せめて、医療に関する情報を日頃から知ってもらうことが大事になります。医療や保健に関する知識的な情報はそれなりに発信されていますが、それだけでは十分ではありません。できれば、医療者が日々どのようなことを考え、取り組み、課題に直面し、悩み、喜ぶのか、そういう感情面まで含んだ情報について、私はもっと医療側が社会に開示すべきだと考えています。医学的知識の普及も重要ですが、崩壊する医療の建て直しを考えた場合には、いかにして一般の方々の「共感」を集めるかが鍵となるからです。例えば、「県立柏原病院の小児科を守る会」の発足にあたっては、医療側からの「もうすぐ無くなるかもしれない」というサインがきっかけになったそうです。辛いこと、苦しいこと、悲しいことを率直に表現することで、「守らなくては」という患者のお母さん方の自発的な意志と力を集めることができたのです。「弱さの強さ」という言葉もあります(金子郁容『ボランティア もうひとつの情報社会』岩波新書)。学ぶべきでしょう。

 また、また、一対一の診察室では難しいからといって、一人で世間全般を相手にするというのも、誰にでもできることではありません(例外として、『医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』を著された虎ノ門病院の小松秀樹先生や、『チーム・バチスタの栄光』はじめ一連の医療エンターティメント小説を書かれている海堂尊先生らがおられますが)。それぞれの方がご自分で可能な範囲で、数人から数十人、数百人といった、できればお互いを知り、顔が見えるくらいの範囲を対象にするのが現実的でしょう。たとえ数人であっても、お互いに共感があれば思いもかけない大きな力になり得ます。それが「コミュニティの力」なのです。無理のない規模というのが、3つ目のポイントです。

 いくつかの具体的な方策を記します。

◆ ブログの活用

 私が、医療の問題に自ら深く関わろうと思ったきっかけとなったのは、あるブログでした。

「日々是よろずER診療」――なんちゃって救急医先生(http://case-report-by-erp.blog.so-net.ne.jp/)

 時折、政策等に関するエントリもありますが、大半は救急救命医が直面するさまざまな症例の紹介です。それこそ、現場で日々何が発生し、何に悩み、どのように行動されるか、このブログで多くを学びました。そして、リアルに現場が何に困っているかを感じ、私にできることはないか、という思いと行動に繋がったのです。

 他にもたくさんのブログがあります。医師は診察室で、患者さんの前で困ったり悩んだりするわけにはいきません。また、面と向かって悩みを打ち明けるのもハードルがあります。ネットを使えば比較的容易にそういう内容も発信できますし、そのようなブログをできるだけ多くの非医療者の方々にもぜひ知ってほしいものです。

◆ メーリングリストやSNSの活用

 同様に、インターネットを利用したメーリングリストやSNSも、よいツールになるでしょう。私は「医療と政治をつなぐメーリングリスト」と題する、有志の医師と国会議員がメンバーになっているメーリングリストに参加しています。あわせて40人程の参加者で、熱心な議論がされています。実際、私も国会の質問の際に参加者の方々に質問案を寄せていただき、活用させていただきました(最近静かですね。皆さんお元気ですか?)。医療者と非医療者ととりまぜて、こういう仲間をうまく作れれば、それが信頼を築くもとになります。オフ会などをたまに行うのも有効でしょう。

◆ 現実のコミュニティを作る

 インターネット世界は、現実の補完はできますが、やはり現実の活動こそが現実に力を与え、成果を生みます。最たる例が先に名前を挙げた「県立柏原病院の小児科を守る会」でしょう。少し昔の話になりますが、プロ野球全盛の中でサッカーのJリーグが成功したのは、「観客」ではなく「サポーター」という概念を導入し、現実的にその育成に力を尽くしたからです。病院や医師に、サポーターがいてもよいのではないでしょうか。個別の病院・医師で難しいのであれば、地域医療のネットワークを地域の公共的な資産と見なすことで、例えば青年会議所やNPO等の団体と連携することも考えられます。


■おわりに――政治の限界を超えて

 私は、いつ解散し失職するかわかりませんが(苦笑)、執筆時点では現職の衆議院議員です。医療問題については、自民党の部会や勉強会、あるいは超党派の議連にも参加して勉強を重ね、特に医療安全調査委員会の問題から深くコミットするようになりました。もちろん適切な医療政策は重要であり、今後も同僚らと議論を重ね、日本の医療をよい方向に導いていきたいと願い、活動しています。

 同時に、政治や行政ができることの限界も痛感するものです。ですからこの文章は、あえて政治の立場にいる者では取り組むことができない、当事者の行動によらなければならない医療問題における「コミュニティ・ソリューション」をテーマを取り上げさせていただきました。

 議員をしていて当惑するのが、「これぐらいのこと、政治ができて当たり前」と言われることです。しかし現実には、さまざまな限界があります。ただ、多くの方々に行動を呼びかけ、訴えることは、議員であろうとなかろうと、できます。だから、今回、ペンを執らせていただきました。

 どうか、この文章をお読みの皆さま方には、それぞれのお立場で自分の心の中にある「当たり前」という殻を打破し、一歩前に踏み出していただきたい。その行動のひとつひとつが、社会の医療に対する「当たり前」感を駆逐し、感謝と敬意を再び勝ち取ることに繋がるものと信じています。長文を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

2008年10月28日

臨時 vol 152 「医療裁判で真実が明らかになるのか」

2008年10月28日発行

       ―対立を超えて・信頼に基づいた医療を再構築するためにー

                          都立府中病院産婦人科部長
                           桑江千鶴子


 医療事故にあった方あるいはその家族が、異口同音に言うこととして「何が起きたのか真実が知りたい」「二度とこのようなことが起きないようにしてもらいたい」ということがある。この思いに対して異論のある人は医療提供者側にも医療受給者側にもいないだろう。このことを深く考えるにあたり、今回無罪になったとはいえ、福島県立大野病院事件は実にいろいろなことを提供してくれた。私は、現在産婦人科臨床現場に身を置く医師として以下のように考えている。

 原点は、「どうしたらより良い医療を受けることができるだろうか。」「どうしたらより良い医療を提供することができるだろうか。」というのが医療受給者・提供者の共通の思いであるということだ。およそ人間が生きている社会において、病気や怪我は必ずあって、できればそれを治して寿命をまっとうしたいという人間の欲望があり、それを治してあげたいと思う人間がいる限り、医療は存在する。しかし、時代や国によってその医療内容は大きく変化している。根源的な問題から考えない限り、医療提供者側と医療受給者側が寄り添うことはできないだろう。本来ならば、共通の敵は病気であり怪我であって、協力して戦うべき同志であるのにもかかわらず、現在の日本では、医者と患者は敵対していがみ合っている。日常的にそうではなくても、少なくてもぎすぎすした関係であることは間違いない。このような状況が、双方にとって良かろうはずはない。もう一度原点に戻って、考えてみたいというのが私の提案である。

≪内容≫
(1) 現在とは―縦糸と横糸の交わるところ
(2) 医療とは何か
(3) 産科医療について
(4) 「何が起こったのか真実を知りたい」にこたえるために
(5) 病院勤務医師の労働環境の改善が急務
(6) 最後に・・信頼に基づいた医療を再構築するために

 前提と提案

≪本文≫
(1) 現在とは―縦糸と横糸の交わるところ

 およそ物事を理解する方法はいろいろあると思うが、縦糸である歴史的視点と横糸である世界的視点は重要である。現在の日本は、その両方の糸が交わったところであると考えれば、置かれた状況が理解しやすい。

 人類の歴史上で、麻酔薬が発見されて、痛みのない状態で手術が受けられるようになったのも、気管内挿管という技術で全身麻酔がかけられるようになったのも比較的最近のことである。このあたりの歴史的事実については、「外科の夜明け」トールワルド著(現在絶版―新刊書としては「外科医の世紀 近代医学のあけぼの」)に詳しい。日本人として誇るべきだと思うのは、華岡青洲は、当時日本は鎖国していたので世界的には知られていないが、アメリカのロング医師が1842年にエーテルを用いて手術をしたその38年も前に、麻酔薬を自ら作成し、全身麻酔をかけて乳がんの手術を行っていた天才であったということだ。1804年のことである。麻酔薬が使用できるようになっても、副作用も大きかった。華岡青洲の母親と妻が人体実験として自らの体を提供して、妻が盲目になってしまったのはその一例である。(「華岡青洲の妻」有吉佐和子著に詳しい。)麻酔薬もさりながら、気管内挿管という技術を確立するまでは、大変に苦労している。開胸すると肺がしぼみ手術できなかったので、肺がんの手術はできなかった。手術する部屋を陰圧にしてみたが、開胸すると肺がプシューといってしぼんでしまい、患者が死んでしまうというような試行錯誤を繰り返していた。気管内挿管という技術を確立して、安全に全身麻酔をかけられるようになったのは、比較的最近のことである。1869年(明治2年)Trendelenburgが始めた時は、気管切開をして管を気管に挿入して行った。その後1880年(明治13年)Macewenが経口的挿管をはじめておこなった。日本で林周一らがはじめて気管内挿管を行ったのは、1949年(昭和24年)つい60年前のことである。外科医が手術を比較的安全にできるようになっても、たとえば腸を縫合するという一例をとっても、いくら縫い方を工夫して縫っても、縫合不全で腹膜炎となって死亡するという試行錯誤を繰り返し、やっと「アルベルトーレンベルト縫合」を発見して腸の縫合が比較的安全にできるようになった。このような例は枚挙にいとまがない。医療は試行錯誤の歴史でもある。どんな治療も試行錯誤なくしては発達してくることはできなかった。どんな標準的治療法であっても、その治療法が確立するまでには、大変な数の施行錯誤があったであろう。ただ理解してほしいのは、ほっておけば確実に死んでしまったり、苦痛からまぬがれ得ない患者を治そうとしての試行錯誤であったのであり、治療法ができればたくさんの人の命が救われるということである。そして、現在行われている医療も、その歴史の流れのなかのひとコマに過ぎないし、これからも医療は進歩し続けるということである。医療内容は変化し続けるし、新しい病気は常に発見される。それに対して新しい治療法を施行錯誤して確立してゆくことは変わりない。すでに確立して今後も変化しないであろう治療法も多くあるだろうが、しかし、私が大学医学部で勉強した当時の治療法は、現在行われていないものも多い。治療法は変化してゆくので、常に最新の治療を提供するということは理論上の考えであって、それが最善であるかどうかは時がたって評価が定まらないとわからない。出ては消えてゆく治療法もまた綺羅星のごとくある。歴史的にあとから振り返って評価しなければ、わからないことがたくさんある。人間のやることは不完全であり、現在目の前にいる医師もまた歴史に流されている一人に過ぎない。医療の歴史への理解と、人間の不完全性への理解を共通認識としなければ、医療提供者と受給者とは話し合いのテーブルにつくこともできない。

 医療が発達してきた歴史を無視することはできないし、これからも試行錯誤を繰り返して医療は発達してゆくものである。それを理解しないでは医療の恩恵そのものが受けられない。現在でも手術は絶対安全というわけではまったくないし、結果はやってみなければわからない。およそ外科系医師であれば、誰でもが思っていると思うが、手術はやってみなければわからないものであり、絶対に治る「神の手」は現実にはありえない。誠実で良心的な医師であればあるほど、謙虚にならざるを得ないのは、相手は人間で自然そのものなので、我々人間の英知の及ぶものではないからだ。現代でも「神がこれを治し、医者は包帯を巻く」ことには変わりない。人間の体は複雑で、わかっていないことばかりである。例えば私の専門の婦人科手術に関しても、骨盤内の解剖でも十分わかっていないのである。それでも手術をしなければならない状況であり、実際に婦人科癌の患者さんがいたとして、解剖が完全にわかっていないからといって手術しないということはできない。わかっているところまでで治療せざるを得ないし、それでも手術をして癌が治ることも多い。医療はかくのごとく不完全なものであることを、医療受給者側は理解してほしいと思う。

 また世界に目を転じてみれば、医療体制は「sicko」(2007年マイケル・ムーア監督アメリカ映画)を見てもわかるが、国によって全く違う体制をとっている。アメリカは完全に資本の論理、保険会社の論理で医療提供を行っており、一度重大な病気になったら破産することも多い。重大な病気でなくても、中産階級で保険料を支払っていても、虫垂炎の手術や出産費用で破産して、路頭に迷うことは多々あるということだ。「ある愛の詩」というアメリカ映画でも、白血病になった妻の治療費を工面するのに、夫は仲違いしていた金持ちの父親にお金を借りに行っていたが、夫は成功している弁護士であった。それでも白血病の治療費は出せなかったのであろう。お金があれば、確かに最高水準の病院で医療を受けることができるので、お金持ちには良い制度と内容の医療であろう。反対に、医療は国が提供していて医療費の自己負担は無いかほとんど無いという国も多い。先進諸国と言われる北欧の諸国、英国、フランス、先進国ではないがキューバなど。質に関しては、その国で医療を受けた人の書いた本などを読むと、医療費の自己負担があるかどうかという問題は別として、日本と比較して羨ましいということはないし、平均的な治療という意味では、日本の医療はそのアクセスの良さもさりながら量・質ともに世界でもトップクラスである。日本は世界の中でも、「国民皆保険制度」のおかげで、比較的安価で質の高い医療を受けられる良い国である。近年WHO(世界保健機構)の健康指標で日本が第一位になったのは記憶に新しい。女性の平均寿命が世界一で、男性は下がったとはいえ第3位であることは、医療の水準や医療体制と無関係ではない。外来患者さんの中には、普段は外国に住んでいるが、医療特に手術だけは日本で受けたいと言って、日本に帰国して受診してくる人が結構いる。

 私の専門である産婦人科に目を転じてみれば、分娩で命を落とす母親は、ユニセフの統計によれば、世界の平均では250人に1人である。言い換えれば10万分娩につき400人の母体死亡が世界の平均である。アフガニスタンでは10万分娩につき1900人、52人に1人であり、これは医療介入がなければこうなるという数字である(最新の数字は8人に1人であり悪化している)。新生児死亡や死産はもっと多い。母子ともに、いわばお産で死ぬのは自然現象であり、現地では誰も文句は言わない。10万の分娩につき命を落とす母親は、アフリカ全体では830人、アジアでは330人、オセアニアでは240人、ヨーロッパでは24人という数字であるが、日本では5~6人である。日本は、スウェーデンと並び世界で最も安全に分娩ができる国の1つであるのだ。しかし0人の国はない。母子ともに分娩で命を落とすのは、いわば自然現象の一つであり、それを救えない医師のせいではない。日本ではこの数字を実現するために、多くの人が長い間努力をしてきた。母体死亡の世界の平均的数字は、日本では昭和の初期頃に相当する。歴史的にも、世界的にも、日本の産科医療は進歩し続けて実力をつけ、世界のトップクラスの成績を実現してきたと言える。産科医が減っている現在でも、臨床医は母体死亡を0にするべく努力をしているし、新生児死亡や障害を無くしたいという思いで働いていることは、現場にいる私は良く分かっている。しかし現実的には、今後これ以上の成果を出すのはかなり困難であろう。産科医が減っていて産科医療崩壊が現実のものとなった今では、歴史が逆戻りすることも予想されていて、医療立て直しは待ったなしの状況にある。


(2) 医療とは何か

 仰々しくこのような命題を持ちだしたのは、本来の医療という仕事を考えた時に、その本質を理解しないと、やはり深い溝が埋まらないと思ってのことである。

 例えば、癌を治すために使う抗がん剤は、本来は人間の体にとっては毒である。

 癌を治すために使うものといっても癌を発生させる発がん物質ですらある。放射線治療も同じことで、癌も治すが、二次的に癌を発生させることもある。薬というのは、主作用と副作用という人間の体にとっては相反するような作用を持つものであるが、副作用のない薬はない。また他の病気では重大な副作用であっても、他の病気ではその副作用が主作用であることもある。例えば、サリドマイドという有名な薬は、本来は睡眠薬であるが、この薬を服用した妊婦さんから生まれた赤ちゃんに四肢の奇形が発生することがわかって、今は妊婦さんへの使用は禁忌である。しかし、その薬の副作用と考えてもいいであろうが、多発性骨髄腫という血液癌の一種への有効性が1990年ごろに確認されて以来、患者さんを救っている。そういうこともある。サリドマイドが発売されてから、服用している妊婦に四肢の奇形の赤ちゃんが多く生まれるということに気がついた医師がいたが、まさにそのサリドマイドが胎児に奇形を起こすことを証明することが難しく、当時大論争になった。学者の中には、サリドマイドが原因ではないという自分の学説を証明するために、妊娠している自分の娘か妻に服用させて、大丈夫であると証明したという話もある。かくの如く、サリドマイドですら妊娠中に服用しても生まれた赤ちゃんが必ず奇形になるとは限らないので、予見性が困難であるのが医療である。医療は、人間を器械を修理するように治療するわけにはいかない。理屈通りにはいかないし、良く分からないことはたくさんある。   

 手術にいたっては、刃物を持って人を傷つけたらだれでも障害罪を適応されてしまうが、医師が手術でメスを用いることは許されている。医学生ですら死体を解剖するすなわち傷つけることが許可されている。医師免許を持っているあるいは医師になる者だけに許されている特権である。しかし、このような仕事のための特権を許可されているばかりに、権力を持っていると勘違いしたり、患者側も医師を生殺与奪権を持つ権力者と思う人もいる。しかし、薬という毒を使えたり、人の体を刃物で傷つけたりできることはすなわち医療という仕事の内容であり、それ以上でも以下でもない。しかもそれを行うのは不完全な人間であり、受ける側はこれも予見が不可能な自然性を持った人間であることが、困ったことに医療の本質であるといえる。

 薬の使い方や量について不適切であったり間違えれば、人間の体に悪影響を及ぼし、障害を与えたり死亡させたりすることもあるが、適切に用いていても予測できないアレルギー反応や副作用がおこり障害を与えたり死亡することもある。しかしうまく用いれば病気を治したり、苦痛を緩和することができる。手術にしても、病気を治すために行うものであるが、治すことばかりではなく、目的とする治療効果が必ずしもあがらなかったり、合併症で予期せぬ結果が起こり悪くなることも死亡することもある。検査でも同様のことは起こりうる。こういうことは医療という仕事の性質上あり得ることである。人間は不完全であり、間違えることもあるが、仕事が医療であるということと、不完全な人間が医療を行うという現実は変えることができない。医療提供者は、医療を仕事とすることで、間違いをしなくなったり、神と同じような完全な人間になれるわけではない。そもそも人間が人間を治そうとして、薬にしても手術にしても、そういう害を及ぼす可能性がある手段を用いて生業(なりわい)をするということに、医療の根源的な問題がある。

 我々医療提供側の人間は、現在の日本では、完全に病気や怪我を治すことを求められるが、そのようなことは神でもない人間にできるわけはないので、「どんな状況でも絶対に間違えずに病気を治せ、怪我を治せ」「手術・検査・投薬で思わぬ悪い結果が出たら罰を与えるし、責任を取って罪として償うべきだ」ということを個人として要求されていて、苦しくなっていたたまれず、医療現場から兆散してゆく。これが医療裁判の形をとっている医療崩壊の実態である。医療提供者は、医療受給者と同じ人間である。まったく変わるところはない。しかるに、医療を仕事とした途端に、神として振る舞うことを要求されるのである。こんな人間性を無視した仕事の仕方や体制が、今後継続してゆけるわけはない。その結果が医療崩壊である。こういった根源的な問題が理解され、共通認識とされてはじめて、国から免許を与えられた普通の人間が、少なくてもその時の医療レベルで実力を発揮して全力を尽くせば結果に関しては問われない、という対策や体制を構築する、という話し合いのテーブルに着くことができる。人間なので間違うこともありうるが、それを最大限に防ぐにはどうしたらいいのか、という体制の構築についても話し合うことができる。

 特に産科医療は、分娩あるいは妊娠中でも患者は急変する。予見できないのに重篤な状態になり、母子ともに死亡することがある。これをすべて救うことはできないのに、専門家でもない裁判官に医師の過失と判断されるのである。これでは、誰も産科医になろうとはせず、せっかく産科医としての技術を習得しても辞めてしまう医師が後を絶たない。

 現在のこの状態は、本当に国民が望んでいる状況なのだろうか。

 ごく当たり前の人間が行っている医療という仕事を、なるべく良い状態で受けられるようにする、あるいは提供できるようにすることは、どちらにとっても望ましいことである。医療提供側は忙しくて過労死する状態で休みもなく、しかも完全な医療を要求されているのが現状である。少し冷静に考えれば、そのようなことが普通の人間に可能であるわけがない。医療の本質を理解して、より良い体制を構築し、ごく普通の人間が行っても間違いが起こりにくいような条件のもとにできるような医療体制にしなければ、誰でもどこでも、良好な質と量の医療を受けられるようにはならない。このことを真剣に議論すべき時だと考える。


(3) 産科医療について

 今回の福島県立大野病院事件について、結果無罪が確定したとはいえ、我々産科医としてはこれで問題が解決したわけではない。もし有罪であったら産科医療崩壊は加速度がついた状態で手の打ちようがなくなったと思うが、今しばし時間の猶予があるかもしれない、という状態になっただけで本質は何も変わっていない、と現場の産婦人科医は考えている。なぜ産科医療が特に医療崩壊の先頭をきっているかといえば、分娩は急変するし予見が難しいからである。しかも、新しい命を生み出すという、人間にとってあるいは人生でも最も喜びに満ちた瞬間が得られるという期待があり、その期待が一瞬にして打ち砕かれるという残酷な結果があり、しかも妊娠が許可されているような若く健康である妊婦さんに起こる悲劇であるので、遺族の方にとっては容認できるような状態ではないからである。病気という認識がないし、分娩が危険であるという認識も昨今では失われているからである。これは近代産科学が血のにじむような思いをして作り上げた結果であるが、「分娩の安全神話」がまかり通ってしまったためでもある。本来の分娩は冒頭に述べたように、実に危険を伴うものであるが、日本では10万人に5~6人位しか命を落とさず、身近に感じるような危険ではなくなってしまったからでもある。そうは言っても日本ですら交通事故で死亡する確率と同じくらいであるので、それほど少ないわけでもない。

 いくら説明を尽くしても、家族が当初から分娩が安全であると思っていれば、結果が母体死亡である場合には、医療ミスではなくても、遺族に理解してもらうことは不可能に近い。誰かの責任にしなければやりきれない、娘や妻を失った無念の思いは晴れないのであろう。現在では、母体死亡はまず医療裁判になるので、面倒なことにはかかわりたくないとして、産科医を志望する医学生は減り続け、また基幹病院特に公的病院からのベテラン医師、中堅医師の現場からの兆散が止まらない。今回の無罪確定をうけても現実の産科医療崩壊は止まらないと思う。

 私が現場にとどまっている理由は、自分では先輩達が血のにじむ思いをして取得してきた産婦人科医療技術を次の世代に渡したいからである。医療技術は失うのは簡単だが、今後取得することはもうできないと思う。日本の産婦人科は、外科もそうだと思うが、技術的には世界的に見ても優れたものを持っていて、私たちは先輩から誇りを持って教わってきた。子宮癌における岡林術式―広汎子宮全摘術、日本で完成された骨盤位分娩を安全に経膣的に行う方法、やはり日本の辻先生が完成された様々な経膣的手術、その他多くの医療技術は、長い年月をかけて訓練され、自分でも努力して習得してきた。多くの産婦人科医が臨床を離れていく現場で、このような技術は急速に失われていくと思われる。もし将来的によい時代が来るとして、細々とでも炎が残っていれば、オリンピックの聖火のようにまた燃え上がる炎にすることができるかもしれないが、一度消えてしまえば二度と火をおこすことはできないだろう、という思いが私を現場に留まらせている。多くの外科系医師が私と同じ思いであろうと想像する。

 産科医療は、短時間に急変して母子ともに危険な状態になることを他科の医師にすら理解してもらうことが困難であるので、医療事故になる割合が高く裁判になることが多くても孤立しがちであったが、大野病院の事故については多くの医師の同情と共感と危機意識の共有ができた貴重な経験であったと思う。今後も、踏みとどまっている現場の医師は、より良い医療を提供するために積極的に議論し、新しい医療体制を構築してゆきたいと考えているし、このような医師がいる間に議論が煮詰まってくれることを念じている。しかし、それほど時間が残されているとは思えない。


(4)「何が起こったのか真実を知りたい」にこたえるために

 医療事故が起きたと仮定すると、家族がその場に居合わせるということが日常的には行われておらず、特に手術室の中であったりした場合には、その状況を正確に家族に伝えることが現実にはできていない、という問題がある。医療裁判を起こす理由として、「何が起きたのか真実を知りたい」という家族の願いがある。裁判所は真実を裁判で明らかにしてくれるだろう、あるいは明らかにしてくれるに違いない、という家族の期待がある。そして、家族の医療側への不信感として、医師は嘘をついている、カルテの改ざんが行われている、医療者は口裏を合わせてかばい合っているに違いない、といった感情があるし、現在は、残念ながらそういった事実もあるであろう。

 しかし、ここで冷静になって考えて欲しいのは、「正直に何があったのか事実を話してほしい。でも正直に話せば、罰を受けますよ。」という状況で事実を話すということが、人間の性(さが)として有り得るのか、ということだ。有名なワシントンの桜の木の話は、お父さんの大事にしていた桜の木を誤って切ってしまった、という事実があって、正直に話したら怒られるだろうから話したくなかったが、正直に話したら、意外なことに褒められた、だから勇気を出して本当のことを話せばいいことがありますよ、ということだ。後にアメリカの初代大統領になるくらいの人物であるから、普通の子供ではなかったであろうが、それでも結果がまずくいっているときに正直に話すということはすごく勇気がいることだという逸話があるくらい、何か結果が悪く出たのを自分で知っていて、正直に話すということは大変苦痛を伴うことである。「褒められる」というご褒美があるかもしれないから、正直に話しなさい、と逸話はいっているのである。これがご褒美どころか、正直に話せば話すほど自分が罰せられるという状況で、医療という仕事をしているの(はあなたが悪いの)であるから、そのような罰則付きであろうが、逮捕され勾留されるかもしれないが、正直に事実を話さなければならない、と言っているのが、現在の医療裁判の論理である。これでは、我々医療者は苦しくて仕方がない。こんなつらい仕事はやめてしまおう、と言って現場を離れているのである。人間の性(さが)を理解しないで制度を作れば、破たんするあるいはうまく機能しないことは目に見えている。

 いざ裁判になれば、自分に不利になる事実は話さなくても良い、ということで人権が守られているので「黙秘権」が適応されるし、行使することも当たり前にできる。医療者といえども日本国民であること、人権が守られている存在であることは何人も否定しようのない事実であろうから、医療裁判でも黙秘権は行使できる。しかしそうした場合には、「何が起こったのか真実を知りたい」という願いは永遠にかなわないことになる。

 人間性についての理解が共通認識でなければ、深い溝はいつまでも埋まらない。

 まず何よりも、そこで働いている人・かかわったすべての人に事実をありのままに話してもらうことが絶対に必要だというのであれば、「事実を正直に話してもらう」ためには、そうしたところで個人は不利な扱いを受けない、ということを共通理解としなければ無理だと思う。目の前に鞭を持っていて「正直に話せば鞭で打ちますよ。」と言っていたら、人間は弱い存在であるので、誰も話しはしないだろう、という想像力を持ってほしいと思う。おおむね日本以外の国ではそうした制度になっていることは、理由があると考えて欲しい。ここで問題にしなくてはならないのは、「医療事故」は本当にその個人だけの責任なのか、ということである。個人を罰すれば解決するのか、それが最終目的なのか、それが再発防止になるのか、という点についても考える必要がある。裁判という手段は個人を対象にするのであるから、どうしても個人を裁かざるを得ないが、それが最良の手段であるのか、ということだ。

 事実を知ることは基本である。その上で、なぜ起こったのかを皆で考えて、再発防止をするためにはどうしたらいいかを考える、という道筋において、まず事実を知るためには、そうすることで個人は不利な扱いを受けない、という大原則を打ち立てて守らなければならない。もし、そういうことが共通理解になったら、誰もカルテを改ざんしたりはしないだろう。嘘をつく必要も、お互いをかばいあう必要もなくなる。客観的に事実を知ることだけが真に必要であれば、事実を話さないということに対して罰則を設ければよくなる。事実を話さないほうが不利な扱いを受けるのであれば、事実を話さざるをえなくなるだろう。人間性としては、その方がはるかに自然だ。

 医療者への不信感が払拭されれば、もっとずっと医療事故についても受け止めやすくなるし、その結果として事実確認も容易になり、補償についてあるいは再発防止の話し合いにすぐ移れると思う。患者家族の悲嘆や悲しみを受け止める機関は必要だと思うが、そこには失われたものへの悲しみはあっても、医療者への不信感が生じなくなるだけ、まだ前向きな気持ちになりやすいのではないだろうか。かかわった医療者も結果が悪くでれば平静ではいられない。人間であるし、もともとそういう病気と向き合おうとして医療従事者になっているのである。動揺し、悲嘆にくれているのは家族ばかりではなく、医療者もまた動揺し悲しみにくれているのである。そういった経験がその後の仕事や人生に及ぼす影響も無視できない。医療者もまた深く傷ついているのだ。医療事故や裁判をきっかけに、それが有責になっても無責であっても、臨床医を辞めてしまう医師は後をたたない。こうして貴重な人材が裁判のたびに失われていく。不利な条件でも積極的に患者の命を救おうとした医療者ほど、リスクのある治療を引き受けるので、結果として医療事故にあいやすい。したがって辞めていく医師は深く傷ついて居り、臨床現場に戻ることはない。これは大変な損失と言える。一人の熟練した医師を育てるのには、大学医学部を卒業してからも、10年以上かかる。そう簡単に補充できるような状態ではない。後に続く医師は、そうした現状を目の当たりに見るので、同じ道には進もうとしない。そうではなく、もし、共通した悲しみに向き合うことが個人攻撃なくでき、医療裁判という手段で解決するという道がなくなるのであれば、再発防止や保障の話し合いも積極的に進み、医療レベルの向上にもすぐ取りかかれると思う。貴重な人材を失うことも少なくなるだろう。それなのに双方を対立させ、感情的に憎ませ、怒りを持続させ、裁判を行っている間の長い間に繰り返し現場を再現させることで、その感情的対立は否が応でも激しくなる。医療事故が起きれば、医療側も当然反省したり後悔しているし、あの時にこうしていれば良かったかもしれない、ということも当然考えている。そうした思いから次により良い治療につなげることもできるかもしれないし、どうしたら防げただろうか、という対策につながると思うが、裁判になれば、勝つことを考えなければならず、そういう前向きな対策よりも目の前の裁判のことだけしか考えられなくなる。裁判にかかわったことがある人であれば理解してもらえると思うが、そのために費やすエネルギーは膨大でしかも負のエネルギーである。時間もかかる。できるだけ短時間で事実を明らかにして、どうしてそういう事故が起きたのかを検証できれば、次につながる状況が作れるのにと思うと、現在の状況は実に残念と言わざるをえない。医療裁判は、双方にとって良いことは何もない。

 被害者感情としては、「懲罰感情」「報復感情」があると思うが、医療者への憎しみや怒りを、その個人に刑罰を与えるという最終目的に置き換える、個人を罰するということが達成されるということで、家族は本当に満足するのだろうか。あるいはそれが唯一無二の慰められる方法なのだろうか。医療者への憎しみや怒り・懲罰感情・報復感情と「真実を知りたい」・「再発を防止したい」ということと、両方の願いを一度に満足させ成り立たせることはできない。前者を徹底させれば、おそらく医療現場に残る人間はだれ一人いなくなる。なぜなら人間は、完全でもなく完璧でもなく誤りを犯す存在だからである。現在でも、外科系診療科現場から医師は撤退し、残っている医師も手術を回避したり、少しでも危ない治療や検査はやりたがらない状態になっており、そういう意味では医療内容的にも医療崩壊が進んでいる。医師がいなくなるばかりではなく、その内容的にも崩壊が進行している。大局的にみてどういう方法が真に国民のためになり、できるだけ安全な医療をどうしたら再構築できるのか、感情的にならずに議論するべきと考える。

 医療の進歩について考えると、医療裁判がこれだけ増加していて委縮医療が進んでいると、あらかじめ評価の定まった治療法しか提示できなくなるし、うまくいかなかった症例を皆で共有して改善しようという動きも抑制される。そういう事例を提示すること自体が危険であるので、誰も提示しなくなる。今もそのような動きが進行している。つまり医療の進歩にも赤信号がともることになる。その影響の大きさは、しばらく時がたたないと目に見えるような形にはならないだろうが、そうなったときには立て直すにも大変な時間と労力が必要になる。

 医療事故が起きた原因が医療提供体制に問題があるのであれば、体制を改善しなければならない。その責任は、その医療施設の設置者あるいは医療制度を整えるべき立場にある国にある。改善すべきところは改善し、正さなければならないところは正さなければならない。ただ、その個人に問題があることも当然ありうるが、その時には評価して研修する制度をつくるなり、その個人がその仕事にふさわしいか、免許剥奪を最終手段として、そういうことなどを判断することが必要となる。医療に従事するにあたり必要な免許を付与しているのは国であるから、当然国が中心になってそういった体制を整えるべきだと思うが、その時に判断する中心となるのは、専門家集団がそれにあたることが必要だろう。医師であれば医師、看護師であれば看護師、薬剤師、検査技師、放射線技師、等々。どうしても専門的判断が必要になるし、専門外の人間には理解しがたい事例は必ず存在する。専門家集団が責任をもって、その人物に対しての評価や行った医療行為に対する判断をくだすにあたり、ここでまたお互いをかばいあうのではないかということが不信感を持っていれば考えられる。しかし、私は徹底的な情報の開示、透明性の確保がなされればそういうことはできないだろうと思う。専門家の中でも良心的な人達というのは必ずいるので、情報が開示されていれば、明らかにかばっていれば他から見てもおかしいので、少なくてもその時の医療レベルについて真摯な議論はできる。議論の過程が公開されていれば、透明性が確保されているので、プライバシーには配慮するとしても、議論の質は落ちないだろうと思う。

 医療界としても自浄能力が問われる事態となっており、全力を尽くして自浄能力があることを証明しなくてはならない。今後、お互いの不信感を払拭して、不必要で傷つけあい、真実を明らかにするには実に不毛な裁判を避けることができるのであれば、自浄能力をいかんなく発揮して、このような制度を構築することは、真にやりがいのある施策となるであろう。立法・行政・司法とも協力して、このような誰にとっても有益な制度を構築するために、医療界あげて英知を尽くし、新しい制度を作るべきだと思う。

 医療という自分の仕事を利用して、故意に人を傷つけたり、死に至らしめたりすることは明らかに犯罪であるので、今までの議論とは一線を画さざるを得ない。こういったことが疑われる場合には、警察の捜査が必要であろうが、警察への通報を誰が行うかという問題は残る。家族がいきなり警察に通報するというのも不自然であり、通常は医療施設に訴えて判断してもらったり、調査してもらったりするのが普通であろう。その上で「この事例は医療事故ではなく犯罪だろう」とか、故意に傷つけたり死亡させたりした疑いがあるのであれば、警察の捜査がはいることになるのが自然だろうし、その際に警察に通報するのは、医療施設が行うことになるのが、家族が納得する経過だろうと思う。ただし、この辺については、まだ議論の余地があるであろう。
  

(5)病院勤務医師の労働環境の改善が急務

 およそ医師という職業が国家資格として認められたのは日本では明治時代からであり、それほど歴史があるわけではないが、その当時は医師と言えば開業医を指していた。しかも開業医は全員産婦人科医でもあり分娩を扱っていた。例えば今年生誕100年を数えるカナダの作家ルーシー・モード・モンゴメリーが書いた「赤毛のアン」には、アンの結婚相手のギルバートという医師が出てくるが、彼は日常的にお産に呼ばれていて、いつも疲れている。また「風と共に去りぬ」は南北戦争さなかで南部の敗戦が濃厚になったころのアトランタという都市が舞台であるが、主人公のスカーレットは、従妹のメラニーがお産になるといって野外で傷病兵を治療している医師を呼びに行っている。約140年前のことであるが、当時病院勤務医はいなかった。その後、医療の中身も劇的に変化して病院勤務医が出現して、その数も多くなり、開業医と病院勤務医の比率も変化した。たとえば産婦人科であれば現在は病院勤務医のほうが多い。病院で提供する医療と、開業医が提供する医療はどの科でもそれぞれ異なるが、その内容も年々変化している。このような状態であるが、病院の医師定数は旧態依然としていて少なく、実際の医療行為の量に比して不足している。医師以外の医療従事者も不足している。家庭や地域での怪我や発熱などへの初期治療対応能力の衰えや、高齢者と同居しなくなったからなのか、高齢者の知恵が活用されなくなったなどの理由があるとは思うが、「些細なことでも何でも病院へ」という流れが生じた。これほど多数の救急患者を診る状態になったのも最近のことである。であるから、医師の労働環境については、以前とは全く異なっている。しかし、勤務条件を改善する努力についてはまったく行われてこなかった。ヒポクラテスの誓いにあるように「金銭的なことは求めないという意識」、「医は仁術」「貧しい患者からは報酬は受け取らない赤ひげのような医師が理想」という意識が、医師個人の経済的なことや勤務条件について交渉したり不満の声を上げるのを禁じてきた。「白い巨塔」で描かれたような大学医局のあり方や、大学教授の絶対的権威と存在のもとで、研修中の医師は医局の駒として動かされ、教授が決定した派遣先には異議を唱えないことという暗黙の了解のもとに、勤務条件の悪い公的病院・自治体立病院にも派遣されてきた。医師が、医局の奴隷のような状態に甘んじた結果として地域の医療が維持されていたという側面はある。大学教授や病院長など医師のトップクラスが、病院勤務医や大学病院勤務医の勤務条件を改善する方向に動いてくれることもなかった。この状態が平成16年度からはじまった「新臨床研修医制度」で壊れたために、まず勤務条件の悪い病院から医師引き揚げとなり、医師不足が明らかになった。大学医局や教授の権威も落ちていたため、医師が赴任したがらない病院から医師不足が始まったということもいえる。24時間365日の勤務を余儀なくされる激務の産科・救急・麻酔・小児科などから、真っ先に医師不足が露呈した。

 医師側の事情だけではなく患者側の意識の変化もある。以前のような「パターナリズム」が支配する医療の状況では、患者の権利を主張することもできなかった。患者の権利意識の向上は、アメリカから始まった黒人や女性の解放をめざす「市民運動」の流れをうけたものと考えられるが、それ自体は大変喜ばしいことであると言える。患者の「自己決定権」や「納得と同意」にもとづく医療の提供については、医療の質の向上や均質化にも貢献し良いことだと思う。しかし、実際の臨床現場では、自己決定に慣れていない患者に対して、医学的知識も乏しいために説明にも時間がかかったり、本人の病気への理解が困難であったりして、混乱しているところもある。いろいろな意味で、現在は過渡期なのだと思う。今後、良い方向への流れとなるような努力が双方に必要だと認識している。

 現実の病院勤務医の生活について述べたい。ある基幹病院の産婦人科医員の時間外労働は過労死ラインと言われる月に80時間の約2倍の160時間を数える。つまり時間内労働を含めると月320時間在院していることになる。1か月24時間×30日=720時間のうちの320時間ということは、生きている時間のおよそ44%、半分近くを病院で過ごしているということになる。その中には一端帰宅しても、患者が急変したり、救急手術のために再度呼び出される時間が含まれている。が、救急手術に備えて自宅で待機する「オンコール制度」というのがあって、その時間は含まれていない。待機時間を含めて拘束時間を計算すると、人生の大部分の時間を仕事に費やしていることになる。精神的な拘束感覚は、実際の勤務時間以上だが時間数にはあらわれない。これでは正常な人間の生活や、家庭生活は営めない。特に日本では働く女性への支援が他の諸外国に比べてかなり貧弱であるので、女性医師は妊娠・出産を契機に現場にとどまることは困難だ。これは労働基準法で定められた週40時間労働の約2倍という長時間労働である。もし労働基準法を順守するのであれば、在院時間だけで計算すると医師数は少なくても2倍必要だ。しかしそのうちの半分は夜の仕事であるので、夜勤を考えて交代制にすれば、医師数は2倍以上必要となる。現在、その時間外労働のほとんどの部分は無報酬であって、「ただ働き」である。医長・部長といった管理的立場の医師も、仕事内容は管理ではなく外来・手術等実際の臨床をしているが、時間外労働への対価はなく「名ばかり管理職」でもある。現在の病院勤務医は労働時間やその仕事の質やリスクに見合わない低賃金労働者である。しかし病院経営は7割が赤字となっており、特に自治体立病院では8割が赤字経営と言われていて一般会計からの繰り入れをいれても赤字であることも珍しくないし、そのほとんどは人件費であるために、医師数の増加も賃金改善もできない。

 また逆に、労働実態に合わせて医師定数の増加を定めれば、ほとんどの病院はそれだけの医師を確保できないために廃院せざるを得ない。したがって病院勤務医は、根本的に勤務条件を改善することもできない。しかもこれほどの長時間労働を低賃金で働いていても、ひとつ医療事故があれば裁判にかけられて、民事であれば多額の賠償金を支払わされるし、刑事では逮捕・勾留される可能性がある。これほど割に合わない仕事はないとして、産科をはじめとする激務の病院勤務医が職場を放棄しはじめたのが、医療崩壊の本質である。すべてを今のままとして、医師だけに負担を強いる状態では、過労のため集中力の低下が起こり、ますます医療事故や医療過誤がおこりやすくなる。また、医療側にも、医療事故を起こすのではないかという不安やあるいは患者からのクレームの増加に対する精神的負担も大きくあり、厳しい医療現場から逃げ出してもいるし、うつ病などの病気で働き続けられなくなっている医師も多い。良質な医療を提供するためには、まず提供側の人間は心身ともに健康でなければならないか、あるいは健康を維持できるような労働条件でなければならないだろう。多くの病院勤務医が過労死をしたり、過労のために自殺を余儀なくされたり、うつ病になったりしている状態で、どうして良質な医療提供ができるだろうか。このような労働条件のもとで働いている医師に一瞬のミスも許さないというのは、あまりに過酷であるし、現実的でもない。まず、勤務条件の改善と医師不足の改善をしてからはじめて医療事故のないあるいは少ない職場が実現できる。

 そのためには病院でしかできない治療や検査に関しては、少なくても病院経営が成り立つような保険点数を付与するべきである。入院診療にも相応の対価を支払い、十分な医療スタッフを確保できるようにするべきである。医療費全体のパイを増やして、患者さんは安全で安心な医療を受けられるように、医師は現場から逃げ出さなくても済むように、そのための人員配置ができるような診療報酬を設定するべきである。これから日本は未曾有の高齢化社会に突入するが、高齢者は自分が病気になった時に、快適に過ごせるような環境を確保するためには、できる人はそれなりの経済的負担をすると思う。高齢になれば、お金儲けには関心が低くなり、健康問題には関心が高くなる。それなりの環境で安全で快適な医療を受けるためには、負担をいとわない人も多くいるだろう。医療費の高騰を防ぐというより産業として育成すると考えれば良い面もある。医療周辺で生じるサービスをビジネスチャンスと考える人も出てくるだろう。新たな雇用の創出もできるだろう。国民は医療への投資は容認すると思う。何と言っても健康が維持できなければ、働くこともできないし、人生を楽しむこともできない。病気になったらすべてを失ってしまうのではなく、また健康を取り戻して働くことができれば、税金も納めることもでき、国は潤うわけであろう。医療費は抑制するばかりでなく、サービス産業と考えて発展的ににとらえるように出来ないのか、発想の転換ができないのかと思う。


(5) 最後に・・信頼に基づいた医療を再構築するために

 どのような仕事でももちろんそうだと思うが、とりわけ医療は医療提供者側と医療受給者側との信頼関係がなければ成り立たず、成果をあげることもできない。しかるに現在のようなお互いに相手に対する不信感に満ちている状態で、仕事をしてゆくことはできないし、成果を上げることはできないだろう。このような状態が続くことは、双方にとって不幸で不利益以外の何物も生み出さないことは、少し考えればわかることだ。なぜこのような状況になったのかは別として、対立を乗り越えるためには、相手を理解できなければ乗り越えることもできないだろう。医療提供者側の人間も医療受給者側になることもある。医療受給者側の人間も、医療提供者が身近にいることもあるだろう。お互いを理解しあうことは不可能なのだろうか。相手の立場に立って考えることはできないだろうか。あるいは相互理解を阻むものは何なのか。

 今まで考えてきた観点からの提案をしたいと思うが、前提として以下のことが理解されなければならないと考える。


≪前提とする事項≫

 「医療の歴史は試行錯誤であり、歴史的に進歩してゆくものであるが、現在もまたその途中である」

 「日本の医療の世界の中での位置づけは、低医療費・医師不足にもかかわらず質量ともに世界のトップクラスの医療提供を実現している」

 「低医療費の中身は、病院勤務医師や看護師などの数が少なく、総じて人件費が低額であることが大きい」

 「人間は不完全な生き物であり、常に完璧を要求しても実現できない。」

 「個人の問題だけではなく、体制の問題にする必要がある。」

 「真実を知ること・再発を防止することと懲罰感情・報復感情とは両立しない」

 「医療は本来障害的・致死的仕事であり、それを不完全な人間が行うことが医療の本質そのものである」

 「医療事故は起こした側も、受けた側同様に悲嘆にくれ悲しんでおり、その後の人生や仕事も左右する。悲しみを共有し、短時間に事実を知り、対策を立てることが共通の利益である。」

 「現在進行している医療崩壊を食い止めることは国民的課題であるし、お互いの利益でもある」

 「信頼関係を構築しなおさなければ、満足のいく医療を受けたり提供することはできない」


≪具体的な提案について≫

 「医療事故が起きたとして、事実を正直に話せるような体制の実現―話すことが個人の不利にならないようにする」

 「医療事故は死亡例のみならず、すべての事例を対象とする」

 「話された事実に基づいた専門家集団による調査の施行と報告」

 「この段階であまりに些細な事例は排除される可能性を含む」

 「医療事故を受けた側の悲しみに共感し傾聴する機関の存在」

 「専門家集団による調査経過・調査結果の開示。その場合の透明性を確保する必要性」

 「専門家集団の自浄能力の発揮・自律性の確保」

 「再発防止策の提言と実現」

 「犯罪との区別と警察の関与について」

 「医療事故被害者への経済的補償」

 「悪質あるいは高度過失事例を行った医療者の評価と研修、免許の取扱について」

 「立法・行政・司法との対等で真摯な協議の努力」

 「医療提供者の健康被害の防止と勤務環境の整備と待遇改善」

 「病院経営の健全化とそれによる適正な人員配置」

 「信頼関係の構築に向けての相互の努力」等
   

 医療は提供者側と受給者側相互の信頼関係に基づいた契約関係であるので、現在のような不信感に満ちた関係では、実際の行為の医療崩壊だけではなく、信頼関係の崩壊がその本質になってしまうだろう。何とかこれを払拭して、新しく愛情と英知に満ちた医療制度を作り、後世に残さなければならない。

 これから生まれてくる子供たちや、育ってくる若い世代に向けて、医療提供者側と医療受給者側、双方が100点満点ではなくても、それなりに満足できる体制を再構築するために、今後より一層努力してゆかなければならないと考える。 
          
以上

2008年10月27日

臨時 viol 151 「安全学研究者から見た福島大野事件判決」

2008年10月27日発行


                     東京大学大学院工学系研究科
                     古田一雄


1.はじめに

 福島大野事件判決については、本メルマガ誌上において医療・司法の専門家を中心にさまざまな議論が行われているところであるが、安全学研究者から見た本件に関する感想を述べてみたい。

2.リスクトレードオフとは何か

 安全学の研究者、技術者は「リスク」の概念によって思考するので、本件もリスクに基いて議論してみたい。ここでいうリスクとは、人間や人間が価値をおく対象に対して危害を及ぼす物、力、情況などを特徴付ける概念と定義され、その大きさは損害の発生確率と重大性によって表現される。そして、リスクが社会的に許容可能な水準に抑えられている状態が「安全」であると考える。

 ところで、この世の中に完全にリスクを有しない、リスクフリーな物、力、情況は存在せず、いかに危険がないと一見思えるような物、力、情況であっても、それによって人の生命、健康、財産に危害を加えることは可能である。「ゼロリスク」や「絶対安全」が幻想に過ぎないことは、忌々しい感情を引き起すことはあっても、常識ある人なら理解でないことではないであろう。

 あるリスクを削減して安全を確保しようとする際に、削減の対象となるリスクを目標リスクという。ここで、リスクフリーな行為はないことから、目標リスクを削減する行為は必ず別の新たなリスクを発生させる。このようなリスクを対抗リスクと呼ぶ。目標リスクの削減には必然的に対抗リスクの発生が伴うが、かといって何もしなければ目標リスクはそのまま残ることになる。そこで、安全対策としてできることは、目標リスクと対抗リスクの間で取引をし、全体としてリスクを望ましい方向に変化させることだけで、これがリスクトレードオフの考え方である。

3.医療におけるリスクトレードオフ

 医療行為は、傷病による患者の健康リスクを目標リスクとして、その削減を行う行為であるが、医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上、対抗リスクの発生が避けられない。したがって、ある医療行為の是非はリスクトレードオフとして判断する以外にない。

 業務上過失致死傷事件を対象とする従来の司法判断においては、行為と被害発生との因果性、被害発生の予見可能性、代替行為による回避可能性が主な争点であった。しかし、対抗リスクの発生が必然である以上、望ましくない結果となった場合の因果性、予見可能性は争う余地のない自明のことである。回避可能性については、その時点で治療を放棄すれば、確かに問題となった行為で被害が発生し得ないという意味で、やはり自明のことである(ただし目標リスクが残って患者は死ぬかもしれない)。これでは、医療行為は成立しようがないであろう。

 ところが今回の福島大野事件判決では、その状況で最良と思われる基準によって目標リスクと対抗リスクの取引をすべきという、リスクトレードオフの考え方に司法が初めて踏込んだと筆者は解釈する。これは、業務上過失致死傷事件を扱った司法判断としては、かなり画期的である。もともと、医療に限らず安全が関る刑事訴訟、行政訴訟において同様の状況はかなり広汎に見られるが、リスクトレードオフの考え方が司法において一般的になれば、裁判が安全対策の足を引張るといったことが減るのではないかと期待せざるを得ない。

4.正当なリスクトレードオフ

 さらに判決では、行われたリスクトレードオフが正当と判断されるための基準も示している。すなわち、リスクトレードオフの判断根拠が「臨床に携わる医師が当該場面に直面した場合に、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性を具備しものでなければならない」としている。これは、判断根拠として最先端の研究成果や少数の成功例があるだけの手法などといったものを基準にしないということで、リスクトレードオフが正当と判断されるための基準を、専門家コミュニティー(ここでは医療界)の共有知に
求めることを意味する。

 リスクトレードオフのように不確かさを伴う判断においては、科学的合理性を有する唯一の解決が存在することはまずない。このような場合には、専門家の間ですら見解が割れることが多く、絶対の科学的真理に判断根拠を求めることは不可能になる。また、学術の進歩によって「真理」が入れ替ってしまうことすらあり得るが、それとて専門家コミュニティーに受容されるにはいくらかのタイムラグを伴う。このように、伝統科学の方法では正当な判断の根拠を明快に提供できない状況のことをポストノーマルサイエンスと呼ぶ。

 ポストノーマルサイエンスにおいては、専門家コミュニティーの大多数に受容されている知見以外に、科学的に合理的で正当な判断の根拠を求めることはできなくなってしまう。ここに至って、リスクトレードオフの正当性は、神様と頭のいい誰かが知っている絶対的真理ではなく、社会的に皆が認めた相対的真理を基準に争われる。

 今回の判決は、この点でも我々の現代社会が置かれた状況に則した踏込んだ判断をしたと言えよう。ただし、「専門家コミュニティーの大多数に受容された」ということが具体的に何を意味するのかについては、専門家コミュニティーの方で何らかの統一見解を用意して行く必要がある。

4.まとめ

 心理学では、すでに結果がわかっている過去の出来事について、あたかも事前に予見できたかのような錯覚にとらわれる後知恵バイアスが人にはあることが知られている。今回のような事件について第三者が判断を下す場合、後知恵バイアスで当事者を裁いていないか常に注意しなければならない。そのためには、司法と専門家コミュニティーが意見交換し、合意形成を行い、一般社会に示して行く必要があるだろう。

2008年10月24日

臨時 vol 150 「第2回 臨床研修制度のあり方等に関する検討会傍聴記」

2008年10月24日発行


       ~ 大臣こんどはマスコミと一戦ですか ~

                 ロハス・メディカル発行人 川口恭


 厚生労働省と文部科学省合同の『臨床研修制度のあり方等に関する検討会』の第二回会議が先週16日に開催された。ちょっとご報告が遅れてしまい申し訳ないが、方向性はともかく話の内容は面白かったのと、それからこの会議の後で、舛添厚労相がwebメディアのインタビューを立て続けに受けて、この検討会のテーマに関して話しているので、そういうインタビューをよりよく理解する意味でも、お読みいただければと思う。メディアも巻き込んで、大臣と官僚との闘いが、何やらまた始まっているようだ。

 さて、委員名簿はこちら( 
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/10/s1016-1.html )。資料はこちら(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/10/s1016-2.html )。

 先日の後期研修班会議で珍答弁を繰り返した日本医師会の飯沼常任理事、それから国立病院機構の矢崎理事長の2人が欠席。矢崎理事長は臨床研修制度誕生の立役者だけに、前回一言も発言をせず、そして今回また欠席したことに意図を感じざるを得ない。

 この日は地方の大学病院を代表する立場の3人からヒアリングして、その後で討論という議事次第。3人からすると噛みつくはずの矢崎理事長に逃げられた感じかもしれない。最後の方でどうしても一言付け加えたいところがあるのだが、そこ以外には特に注釈を加えない。

最初の発表者は今井浩三・札幌医大学長理事長。
 「学長の立場、そして病院を経営する立場でお話をさせていただく。札幌医大の理念は、最高レベルの医科大学をめざしますということであり、そのために、人間性豊かな医療人の育成に努めます、道民の皆様に対する医療サービスの向上に邁進します、国際的先端的な研究を進めますという3つを謳っている。

 最後の研究に関して言うと、文部科学省の科学研究補助金の教員1人あたり配分額を見てみると、札幌医大は13位。全国の公立の医大は8校あって12位に京都府立医大、14位に横浜市立大と3校並んでいる。それから38位に大阪市立大、39位に名古屋市立大、40位に奈良県立医大があり、上位50校の中に6校の公立大が入っているということと、札幌医大は研究面でもトップレベルにあるということを言いたい。

 最も重要な教育についても、地域医療に焦点を当ててたくさんの文部科学省GPに応募しており採択もされている。それによって実習を次々に行っている。6年間に医学部だけで4回の実習があり、さらに看護師を養成している保健医療学部と合同の実習も1つある。この合同実習は重要な柱として、私も一緒に行って年に2回に分けて行っている。地域の皆さんのニーズを知ることによって地域医療をめざす人が増える狙いだ。

 しかしながら、そういうことをしていても昨年市立根室病院で内科医がいなくなったり、5カ所で診療体制縮小が起きている。なぜそうなったのかと言えば、臨床研修制度で大学に人材が足りなくなったというのが大きな要因であることは間違いない。そのことをデータでお示ししたい。たとえば市立根室病院では、平成18年11月に11人の常勤医がいたのに5カ月後には3人になってしまった。札幌医大でも何とか支援しなければいけないということで、現在少し持ち直している。

 札幌医大の初期研修医数の推移を見ると、平成16年度から70人→58人→50人→36人→47人と徐々に減っている。それ以上に問題なのは後期研修医が平成12年度の106人→97人→97人→77人と来ていたものが平成16年度と17年度は0、18年度から78人→77人→71人になって、2年間0だった。これが悪い状態を作る原因になって、地域へ送り出す医師の順繰りがうまくつかなくなった。

 札幌医大には、いわゆる医局は存在しない。廃止した。で、平成16年度から医師の派遣要請に対しては窓口を一本化して大学全体で行うことになった。その派遣人数を見てみると、平成16年度には派遣可な医師が427人いたのだけれど、その後344人→331人→318人と減っている。結果として新しい所にはほとんど出せていない。その分、教官や大学院生が非常勤として出て行っている。教員は1人月に28.5時間、それ以外は7.4日外にいる。過剰な労働になって、だんだん問題が出てきており、この辺がギリギリ限界だと思う。

 まとめると、大学に人がいないのは本当。引き金は臨床研修制度。何しろ北海道から2年間で600人の医師が消えたことになる。何とかしようという努力は色々な角度からやっているけれど、それだけではどうにもならない。最後にささやかな個人的提案をしたい。現状に照らして臨床研修をゼロにするのは現実的でないと思うので、現在「自由選択」になっている2年目の後ろ8か月を地域医療もしくは総合医療なものにして地域に出て行ってもらったらどうか。研修にも役立つし地元の患者のためにもなる」

この発表の途中で参院予算委員会を終えた両大臣が到着。まず塩谷文部科学大臣が挨拶
 「大変大きな問題であり、舛添大臣が熱心に取り組んでいる。最初は渡海大臣、1回目の会議が鈴木大臣、2回目が私と次々にメンバーが代わっているが、舛添大臣に常にリードしていただいている。ぜひとも十分な議論のうえ結論をいただきたい。産科、小児科をはじめ地域医療に深刻な状態をもたらしている。それを何とかするためにも大学病院を応援していかなきゃならんと思っている。実は私、河村官房長官と一緒に大学病院を考える議連の会長代行をしていて、前々から臨床研修制度には検討すべき点が多いと思っていた。能力、志ともに高い医師を育てるのが大学病院の役目であり、また地域医療を支える最後の砦でもある。臨床研修制度を始めればどうなるか、最初から予想できたのでないかと思うのだが、当然見直しということを含めて積極的に議論いただいてできるだけ早い機会に結論をいただきたいと期待している」

 明らかに前任者よりも制度見直しに前のめりだ。矢崎理事長が欠席したくなるのも分かる気がした。続いて舛添大臣
 「今、文部科学大臣から話があったように、内閣は変わったけれど、麻生内閣でも両大臣のもとでこの検討会を実施していく。ビジョン会議、そのメンバーもいるが、重点的なポイントとして、新しい臨床研修制度が地域医療の崩壊に拍車をかけたことは今データでお示しくださった通りだと思う。卒前と卒後で重複して無駄じゃないかという声もあった。だからこうして両大臣のもとでやっている。1人の医師を養成するには、厚生労働省だけでも文部科学省だけでもできないから。今、今井先生から2年間の後ろ9カ月を地域医療枠にするという提案があって、いいアイデアだなと思った。それに関連するのだが、卒前卒後の重複を考えたら、思い切って2年を1年に縮めたらどうだろうか。医師養成数の1.5倍増をすると言っても、大臣バカを言っちゃいけない、育ってくるのは10年後じゃないか、もっと目の前にできることをしろと言われる。そういうことを予算委員会でもさんざん指摘されてきた。2年を1年にすれば単純にいって8000人医師が増えることになって即効性があるんでないか。もちろんプラスマイナスあると思うので、この案について重点的にご議論いただけないだろうか。

 それからもう一度確認しておきたいのは、臨床研修制度が悪いということではなくて、全体のレベルアップは果たされ、専門しか診られないというような弊害は改善されたと思う。私の隣に国民代表たる大熊委員がいらして、研修医に逃げられる病院の方もしっかりしなさいという話だった。この点についても活発な忌憚のないご議論をいただきたい。例えば医師が一人前になるところで、プライマリーケアはどの段階でやるべきだろうか。両大臣に遠慮は要らない。自由にご意見をちょうだいしたい。

 こういう政局ではあるが、どういう内閣になっても、どういう政党の政権になっても、この問題は国民代表としてやらなければならない改革である。一刻も早く方向性を示すことが国民にとっても重要であろう。何とか年内ぐらいに何らかの中間報告をいただけたらと思う。総選挙がいつあるのかは麻生総理とお話をしても私にもサッパリ分からない。それを気にせずやるしかない。今朝の読売新聞朝刊に計画的な医師派遣の提案が載っていたけれど、そういう規制強化がいいのか、いやいやそんなんだったら医師やめるよと言われたらそれまでなんで、一つの新聞社の考え方ではあるが、こういうことにもご反論いただいたり、ご議論いただければと思う」

発表に戻って冨田勝郎・金沢大学病院長
 「頭の中では、このことばかり考えてきたし、今も考えている。舛添大臣の問いに対しても即答できるけれど、まずは自分の任務を果たしたい。といっても、北陸の惨状を訴えに来たつもりはない。日本の医療をどうしたら良いかその答えを持ってきたつもりだ。臨床研修制度が、現在の混乱を招いたことは議論の余地がない。この制度がいいと言った大学病院長に会ったことがない。ここに3人呼んでいただいたということは、行政も地域医療立て直しには大学がキーとなって支えないといかんと理解していただいているのだろう。そこで述べたい。

 臨床研修制度の根源にあったのは、大学病院の医局制度の良さを適正に評価せず崩壊を図ったこと、これだと思う。皆さん認めるのは苦しいかもしれないが、これが事実だと思う。大学の医局制度は日本が150年かけて木が枝を伸ばすように試行錯誤しつつ築いてきた『資本主義と社会主義の中庸をいく』すばらしいシステムである。たしかに山崎豊子さんに書かれた白い巨塔のような問題点も一部にあったが、そのような問題点は修正していけばいい。皆さんそういう知恵は持っていると思う。

 日本では大学病院が軸となって『医の心、倫理観』を大切にし、金の事を考えずに一番よい治療を行うというような拝金主義・市場原理主義に偏らない真の医療を追求・実行・教育することを許されてきたし地域医療を支えてきた。現在の研修医は、症例の数を競って、何をさせてもらったかを競う。それは大きな間違い。患者さんにそんなことを言っちゃいかん。1人を徹底的に見て最良の医療をすること、それこそが大切。数じゃないし、させてもらうということでもない。それから地域医療に若い医者を回せばいいだなんて、とんでもない。私は地域の出身だが、地域の人間にしたら、こんな失礼な話はない。私は家族をそんな危なっかしい医者に診てもらいたくない。なぜそんなドクターを地域に回そうという話になるのか、悲しい。経験豊富な医師かリタイアした医師、もしくは中堅の医師が欧米の医師がアフリカへ行っているように年の3分の1はボランティアをするような、そんな風にして担うべき。若い医師というけれど、そんなのが東京のここに来て、東京も地域だとするならば、それでいいのか。憤りさえ感じる。

 以前なら大学病院では経営のことなど考えずに何が最もよい治療か叩きこんだものだ。その後で一般の病院に出て行ったなら経営を考えながらやることも必要だろう。しかし今は、大学病院まで一般の病院と同じように競争させているから拝金主義になって地域医療の崩壊につながっている。大学病院は教育・診療・研究が仕事。研究を行うからこそ新しい医療が次々に実行される。逆に医療はリニューアルしていかないといけない。医師が年いったから古い医療で構わないなどという患者はいない。その患者の要求に応えるためには、医師は障害学び続けないといけない。その生涯教育をやっていくのも大学病院が常にリードしていかないといけない。

 大学病院をしっかり立て直せば、つまり医局をしっかり支えていく体制に戻せば、地域医療もしっかりする。大学病院を他の病院と競争させるから地域医療がおかしくなってくる。

 実は明るい兆しが見えている。ことしの7月だったか8月だったか、驚くべきことが厚生労働省から発表された。正式名称は忘れたが臨床研修に『大学病院専門医型特別コース』というものを設けるという。しかし足りないのは、産科、小児科、麻酔科、救急だけでない。これを全科に適用・推進させていくことによって、既に目標を定めている研修医は安心して研修に励める。実際問題ほとんどの研修医は医学部6年の間に進む方向性を決めているし選ばなければならない。6年の直後に決めなければダラーンとしてしまう。卒後にさらにベッドサイドちーちんぐを繰り返すような無駄なことになる。研修医も8割方はどのコースを選ぶか決めている。特別コースに入れば、実質的に研修を1年短縮したことになる。最初の1年でプライマリケアの基本的なことをやって、2年目は自分のめざした科を回ればいい。このようにしてもらえば、大学病院としても自分の科に来たのと同様の教育ができる。このようなことを言うのは、今、一般の病院では研修医に対するゴマスリが行われている。評判を良くしてもらってどんどん研修医が集まればいいと。だから、症例の数や種類という話になる。1人の患者を診ても10の病気を勉強することはできる。これが本当の教育であり、特別コースが標準になれば専門科との一貫教育の流れができて、大学病院の定着率も元通りになる。

 大学病院は教育・診療・研究の三本柱が使命と言われてきたが、そこに改めて地域医療を支えるということもやっているんだと、行政にも認識していただくべきでないか。先ほど舛添大臣が『即効性』とおっしゃった。8月に出されたプランを4月から全科に適用すれば、すぐにグングン立ち直っていくと私は確信している」

と、ここで前の発表者である今井学長が手を挙げた。
 「今、地域に未熟な人が行くかのような発言がなされたけれど、そうではないので一言。当然のことながら、研修医が行くからには指導医もいて、きちんとした医療が行われる。地域が大事なのは、北海道にいる私が誰よりも分かっている」

最後の発表者は河野茂・長崎大医学部長。
 「先ほど日本で150年かけてというお話があったが、本学は創立150年。西洋医学発祥の地であり、また原爆ですべて壊滅したところから立ち直って頑張っている。長崎県も五島や対馬の離島を持ち、五島には教授が張り付いて実習を行っている。毎年、ほかの大学からも30人程度の実習を受け入れている。このように頑張っているんだけれど、という話をしたい。

 長崎大学病院のマッチング結果だ。平成17年度をピークにどんどん下がっている。これは何も大学病院に限った話だけではなく、県内の病院でも同じ傾向だ。魅力的なプログラムがないという批判の声はあるが、何とか魅力的なものと佐賀県と共同でプログラムをつくって新しいGPも獲得したが、しかしこの低落傾向を変えられない。大学の入局者も臨床研修開始前は90人近くいたのに、このままだと平成22年には39人になる。診療科を見ても、ローテートで回ることになっている小児、産婦人科、麻酔科、精神神経科が軒並み減っていて、要するに回ってもそこをめざす人はかえって激減している。その結果として、長崎の医師の資質が劣るわけではないけれど、乳児死亡率は全国ワースト4位、新生児死亡率もワースト5位だ。これは何かというと、NICUに勤務する医師が足りないということ。明らかにデータとして出ている。

 地元の出身者なら長崎に残るのかというと、これがそうでもない。結構、福岡へ行ったり、もっと遠くへ行ってしまったりする。なんでかというと、現在の研修制度だと地方にずっといる人間に『地方を離れてみたい、一度は都会に出てみたい』という気持ちをわざわざ呼び起こしているようなものだから。このように研修医と入局者が減った結果、当然の結果として多くの病院について派遣人数の削減を行うことになった。

 では、どうすべきか。まず入学定数が必要だ。長崎大はMAX120まであった。来年は増やして105。MAXがもっと必要だ。県外に流出してしまって地域の不足に悩むようなところには入口から広くしてほしい。それから、たとえばカナダでも90年代にマッチングが行われたが、今の日本と同じような医師の偏在が起き1年で廃止になって、現在は定数と参加者が一致している。大学でプログラムを組み一般病院も含まれる形になっている。今の日本は講義の時間に抜けてマッチングの試験を受けに行っている。全国統一期間にしてもらわないと。諸外国では、国全体でマッチング枠を決めて専門性持つ人間を何人育成するかの制度既に持っている。すべて自由というのはありがたいことだけれど、何らかの手を打つ必要はある。自分の希望しないかを回るのは時間のムダという声が強い。全員、満遍なく回す必要があるのか検討は必要だろう。大学病院の従来の良さは経済的なことを考えずに教育できるシステムだったこと。それなのに人が足りないばかりに将来の医療を支える研究を犠牲にして苦闘している」

高久座長
 「ひとつ質問だが、長崎大は地域枠を持っていたか」

河野
 「昨年からAO入試で5名取っている。定員枠が広がったら、今後20名まで増やしたいという希望を持っているので、新木課長ぜひお願いします」

 ここから討論。
辻本
 「素朴な質問。大学病院がだいぶ被害者意識を持った発言に聞こえた。では、なぜ大学病院が研修医に嫌われたかについては、どう考えているのか。昔、大学病院の人から、病院の中で偉い順に、婦長・看護婦・医師・プロパー・犬猫ネズミに研修医という言葉があると聞いたことがある」

今井
 「よく言われていた話だが、大学は教育と研究と診療をすることになっているけれど、それを担っているのはほとんど全部同じ人間だ。だから人員的に厳しい。看護師もトレーニングしなきゃいけないとか、普通の病院とはかなり異なる。それから雑用が多い。クラークがほとんどいない。先ほども高等教育費が少ないという話があったけれど、大学も予算が厳しい。結果的に人が足りない中で研修医が最下層でやらなければならない。そこに対する反発は当然あるだろうし、時代が変わって研修医のものの考え方も変わった。もっといい所でやってみたいと思うのは自然なことで、医局だけで元に戻すのは無理だ」

富田
 「わたし自身、大学病院から逃れたい逃れたいと思いながら教授になってしまった身だ。思い返してみれば、先輩たちは手術は教えない、見て盗めというスタンスだった。つまり医師となった以上自ら学び取るんだ、教わるんじゃないということ。犬猫ネズミより下というのはブラックジョークであり、犬猫ネズミを研究材料として使い、その成果で医療を行っているんだから、そのことを理解していれば、まだ自分たちは犬猫ネズミよりも役に立っていないという謙虚さが必要。それをそうやってジョークにしてしまう浅はかさに愕然とする。笑い話にして、それがマスコミに面白おかしく取り上げられて曲解されて。我々は研究に使った動物たちを墓に葬ってお参りしている、そんなことも分からないのだろうか。

 それから雑用が多いという話があったが、雑用って何?と言いたい。雑巾がけは、雑という文字が入っているけれど、そんなにイヤなことですか。お寿司屋さんになりたいと思って入っても最初は丁稚奉公で寿司なんか握らしてもらえずにテーブルを拭いたり水まきしたりさせられる。あれは根性論とか雑用とかではなくて、飲食店が食中毒やると命取りになるから、衛生の習慣を植え付けるためにやらせている。そういうことを理解せずに表面だけを見て雑用と笑われるのは非常に悲しい。もっと深い所を理解してほしい。

 たしかに指導も厳しいだろう。しかし厳しく指導するのは良い医療者に育ってほしいと思っているからであって、そう思わなければ叱ったりすらしない。きちんとした医師に育てようとすれば厳しいことも言わざるを得ない。そういう厳しいことを教えようとすると若い人は嫌がるんだけれど、自分たちがどの程度のものなのか、謙虚な気持ちを持ってほしいと思う。そう考えれば大学病院は決して悪いところではない。ただ給料が安いことだけは私も悲しい」

嘉山
 「大学に問題があったことは間違いない。雑用なんかないというお話だったが、たしかに診療に関連することはそうかもしれないが、文書関係の医師がやらなくてもいい、そういう雑用も多い。高等教育費が先進国中ビリから二番目で、大学病院にはクラークなんて全然いなかった。我々がわざわざやらせてたわけではなくて、構造的に仕方なくだ。最近ではCBTというものも導入されて、大学教育自体がモダーンになってきた。徒弟制で何かと問題が起きていたことも確かで10年以上前にはたしかにあった。

 辻本委員と富田先生が大学病院の問題を表面に出しすぎたので、少し話を戻して国民目線で整理をしたい。臨床研修制度のアドバンテージは、眼科や皮膚科、精神科などストレート研修に入ってしまうと全身を診られない医師ができて、命にかかわる事象が起きた時に対処できないという弊害があったが、循環器とか呼吸器とか脳とか命にかかわる分野を一通り回っておくことで、できるようになった。一方で悪い面は、子供たちにパンドラの箱を開けさせてしまったこと。マッチングで全国どこへでも行けるようになったことで、一般社会と同じ倫理観、一般社会にもちゃんとした人はいるけれど、それで病院を選ぶような状態になってしまった。上の方の3分の2位はよく研修できていると思う。全体をボトムアップさせる視線は必要で、今後は質を担保しながら地域医療の崩壊をくいとめつつ、診療科の偏在も解消する取り組みをしないといけない。ただし前提となるのが、絶対的な医師不足であり、医療費が少ないということであり、教育費も足りないということ。

 臨床研修制度のマズかったところは科ごとにやっちゃったこと。実は命にかかわるプライマリケアは、一部の科を除けば全科でやっている。その最低限のところをマスターしたらよい。実はそういう目標は既に決められていて、4年生時のCBT、卒業時の国家試験、さらに2年間の臨床研修で学ぶことになっている。文部科学省とシームレスにできるのならば、知識は4年時のテストと国家試験で終わっている。あとは実地だけだ。そう考えれば1年でできるだろう。資料として、いつも大熊委員が使う手法を私も使ってみた。群馬大の5年生からメールをもらったので個人情報だけ消して出す。学生は、現在の教育は無駄を繰り返していると見ている。実技に関して言うと、何歳で始めようが最初は皆同じ状態だ。

 どこの科で勉強しても構わないから、最低限の目標をクリアしたところで指導医が保証することにすればよい。現在の研修では500床以下の病院に行った場合、きちんと身についたのかは自己評価しかない。500床以上では第三者が保証している。現在は100床以上が研修医受け入れを許されているが制限を加えてもよいのでないか。毎年2000人程度が、そういう質の担保のない研修を受けて、往々にして専門研修にきちんと入れないから、フリーター医師予備群になってしまう。どこで線引きをするかについては意見分かれるにしても、きちんと受け入れ体制のある病院に絞るべきでないか。文部科学省の方には失礼な言いかたになるが、これは厚生労働省がやってしまった「医のゆとり教育」でないかと思う。もちろん線引きにあたって、地域医療の崩壊をくいとめる観点から、地域の特性を考慮することはあって構わないだろう。一県一医大制というのには、大学病院に地域を守る使命があると思う。

 それから前回齋藤委員が指摘したように、国家が法律で行わせている研修であるにもかかわらず、処遇が病院によって違うというのもおかしいのでないか。司法修習生は全員同じだ。研修を義務づけているということは、一人前になるために勉強しなさいということで、同じ勉強をするのに、なぜ処遇が違うのか。

 以上3点述べた。ベッド数制限に関しては、小さな病院が大きな病院と組んでたすき架けのプログラムを組むことは可能としても、ある程度のベッド数制限は必要と考える。いずれにしても、3つの根本的な悪条件のもとでやらないといけない。医師不足に関しては、養成数1.5倍という方向性が示されて少し改善の動きが見えた。しかし根本的には医療費の増額、教育費の増額が必要だ。これだけモノがない国でセーフティネットである医療と教育にお金を使わないとは一体どういうことか」

齋藤
 「出身地に帰りたいというのは自然なこと。これまでは大学の外に出てしまって医師としてやっていくのが難しかったから医局に入っただけで、その縛りがなくなった今、2年を1年にしたからといって大学に人が集まるのかは疑問だ。価値観や人生観が昔とは違う。大学がキーとなるのは確かだと思うが、もう一回新しい養成制度を作り直す必要があるのだろう。研修病院の違いによる経済的インセンティブはやめさせるべきというのは前回も主張した通りで、数をあらかじめ各地で枠として決めて、そのうえで全国でマッチングをしたらよいのでないか」

高久
 「前回の主張は、各都道府県でマッチングをするということではなかったか」

齋藤
 「そうではない。枠は都道府県ごとに決めて、全国でマッチングする」

武藤
 「要はカリキュラムを前倒しにして5年生6年生の時にどれだけやらせるのか、具体的案を出したらいいのでないか。スチューデントドクターにどこまでやらせるのか法律を変えられないんだったら、処置の範囲だけ決めてやったら済む。2年やって後半をフリーにするくらいなら、前倒しにする方がいいんじゃないか。ただお願いしたいのは、現場の生の声をもっと集めてほしい。特に教える側の声が出てこない中で我々があれこれ決めてしまって、始まってから違うぞと言われても遅い。

 大学の労働環境が悪いのはその通りで、クラークもいないし。雑用じゃないぞという話だったが、少なくとも事務的な雑用はある。医師本来の仕事に専念させることは必要なんじゃないか。米国だったら、クラークも10倍いるし、医師も10倍いる。そんな現状で現場にいる医師がとても疲弊していることは事実だ」

福井
 「マッチングに関しては齋藤委員と同じ意見。参加者が8000人ちょっとしかいないのに定員が1万1千もあるのはおかしい。せめて定員を9000位まで絞って、さらに病院の質と分布もうまく考えて地域バランスも整えるべきだというのは私自身が当初から言っていたこと。そのことは前提として、今臨床研修を変えるという話になるのならば、そもそもなぜ臨床研修を導入したかというところも再確認したい。卒業直後からのストレート研修で育った場合、専門外の患者について診られない診たくないという医師が目立ってきて、それではいけないからということで幅広い研修をしようということになった。その状況は変わっていない。研修自体は1年でよいのかもしれないが、しかし大学教育の実習実態が大学によって差がありクリニカルクラークシップを多くの大学で行っていない、だからこそ2年は必要だという論法だった。医師不足の要因にはたしかになったのかもしれないが、しかしそれは数多くある要因のうちの一つで、まずは医師の質を保証することの方が大切でないか。であれば、卒前教育をどれだけ改善できるかの裏付けがないうちに研修だけ見直すのでは、医師の質の基盤が弱い。どういう医師を養成しなければいけないかと何十年もかけて議論してやっと導入された臨床研修だ。いい医師をつくるために、卒前の部分も十分に検討してほしい」

能勢
 「今の臨床研修に関して言えば、いろいろと案があった中で2年で収まった。だいたい妥当なところであろうというのが個人的な見解。養成を所管する省と研修を所管する省とが一緒に入っているのだから、前倒しでダブっているところをどうするのか議論することはできる。ただ、免許を取ってない段階での医療行為は、最近どんどんされない方向になっている。それには社会的要請もある。また、前倒しをして医学部教育6年、実習1年にするとして、医学部教育の内容はどうなっていくのか。というのが、あまりに人間性に欠けた医師が多いという批判がブームになって、教養教育を強化した結果、専門教育が圧迫されている。それから医学が細分化されて最先端まで教えるとなると全然時間が足りない。最先端のことは卒後にするとなれば間に合うのだが、しかし最先端のことを教えるべきだという意見もあって一致しない。大学の任務として先端の研究がある以上、学生にも触れさせたいし、触れさせることでモチベーションが上がるということもある。要は、日本の医療水準をどこに置くのかの問題でもある。いずれにしても期間を短くするとか教える内容を制限するとか具体的に出してみて、叩いた方がよいのではないか」

小川(彰)
 「臨床研修が2年になった経緯は皆さんのおっしゃる通りと理解しているが、しかしもっと歴史的なことを整理すると、平成3年にそれまで2年と4年に分かれていた医学部が6年一貫に大綱改正された。もっと実質的な医師を養成するんだという理念の変革だった。一方で厚労省の側は、文部省が送り出してくる医師の技量が十分でないということで平成13年に臨床研修を法制化して平成16年に実施したと、こういうことだ。

 なぜ大学病院が嫌われるかということに関して言うと、国民皆保険は素晴らしい制度だけれど、それができた当時はメスと注射器とお薬だけあれば医療ができた。高額医療機器はなかった。CTとかMRIとかスペクトルエコーとかPETとか。それらの高額なものを国民皆保険の中にムリ無理閉じ込めた結果、人件費に回せる分が少なくなって、人が少なく給与も安いということになってしまった。大学の中では、研修医と上の医師との間に給料の逆転もある。そもそも大学病院の先生というのは医師とは認められず教員としての給与体系になっている。文学部の助手と同じ給料で責任重く夜中まで働いている。入るのが難しい学部で6年勉強させられてこれしかもらえないのか、ということになる。全体の構造的な問題であることをぜひご理解いただきたい」

高久
 「武藤委員、福井委員から、学生の実習を変えなきゃという意見が出された。これに関しては確かに文部科学省の検討会、辻本委員も参加されていたと思うが、でも、能勢委員指摘のようにどんどん後退しているという話になっていた。それは患者さんが、学生に診られるのがイヤと言うし、指導教官の方も事故があったら困るということでやらせたがらないということだった。

 ところがこれ欧米、カナダなんかだと、患者さんが喜んで学生に診てもらっている。イギリス、カナダなんかは国家試験がないので、医学部を卒業したら即医師ということもあるだろう。日本の国家試験がかなり難しくなっていて集中してらないと通らないというのもある。もし最後までクリニカルクラークシップをさせたら、国家試験の成績は悲惨なことになるのでないか。それからプライマリケアがイコール医師の基本的な診療能力ではないと思う。現場に行って勉強しないと、やはり本当のところは身に付かない。だからどうしても中心は卒後にならざるを得ない面があるだろう。ただグルグル各科を回っても本当の意味のプライマリケアの勉強にはならないので、そこは大臣にもご理解いただきたい」

西澤
 「卒前教育だけでは臨床に足りないし、国民にニーズのあるプライマリケアをやる医師が育たない、それには2年必要だという話だった。2年を動かす前提として卒前をどうするのか。今のままなら臨床研修は2年必要だと思う。それから、そもそも論として大学医局が医師の派遣機能を持っているのは良くないだろう、地域でそういうことをするのが大事であろう。大学にその役割を負わせてきたのは、実は行政の怠慢だと思う。行政の責任でそういう仕組みができれば大学は楽になる」

永井
 「1年あたり8000人の医師が減ったというプレゼンだったが、大学の外にいると8000人減ったという実感はない。臨床研修があるために、卒前教育の部分が後退してすぐには戦力にならないということはあるかもしれないが、存在はしているので必ずしもゼロになったとは私自身は思っていない。

 むしろ国民の目線から見れば、昔は内科とか外科とか広い分野を診られる医師が当たり前だったけれど、多くの大学病院が臓器を冠した専門科になってしまっていて、しかも若い先生たちは卒後2年でもう『自分は循環器専門』というような話し方をする。まずは国民のニーズとしての救急とか初動としてのプライマリの能力を担保するために臨床研修制度が始まったんだろう。それがいいバランスになっているかは別の問題である程度ベッド数を地域のオンジョブで決めていくことは大切だろう。2年を1年にするんであれば、1年で何を期待されるかしっかり議論しておかないと、1年すらもう要らないという話になりかねない。メリットとデメリットをしっかり整理したうえでないと。

 自分が5年間医局で研修を受けた経験からすると屋根瓦制というか、2年生から1年生が教わるというようなのが身に着いた。大学の教官数は諸外国と比べてもケタ違いに少ないのだから、研修指定病院と大学とで協調してもよいのではないか」

大熊
 「元に戻したいと言っている方々は二つの意味で人を差別している。若い人たちは、お金に目がくらむということと、都会を好むのだと決めつけている。そうではない。彼らは真剣に自分の将来を考えて選んでいる。もし素晴らしい研修があるのなら、少しくらいの不便は受け入れようという気がある。学生に選ばれる大学になることが先でないか。それから大学病院より一般病院の方が倫理観に欠けるというような発言があったけれど、そういう発言が特に金沢大病院の方からされるというのが不思議だ。金沢大の産婦人科では、わざと抗がん剤を大量に投与して患者が死んでしまって、しかもそのことを注意した人を干すということをしているではないか。

 2年か1年かということで言えば、グローバルスタンダードは2年だ。例外は米国が1年だけだけれど、しかし米国では大学にいる時から濃密な研修をしている。変に短くすると患者からすれば危なっかしい医者が出てきてイヤだ。

 元々の医師の数が論じられていないが、そもそも数が少なすぎる。特に千葉や埼玉といった戦後急激に人口の増えた所がすごく少ない。たとえば千葉には600万人に千葉大1個しかない。だから調子市民みたいに日大が引き上げたらすぐお手上げといった感じになってしまう。そういう所では少し位定員を増やしたところで焼け石に水。メディカルスクールを作って社会人からの養成を積極的に進めるべきでないか。そういう医師の少ない県に限ってでも作ることを検討したらどうか。大学の機能評価などで訪問してみると社会人になってから入り直した人はしっかりしていて、ストレートの医学生からも尊敬されていることが多いようだ。2つとか3つとか、メディカルスクールを増やすことを検討してはどうか」

 やはり大熊委員は何を言うか油断がならない。冨田院長はかわいそうに言われっぱなしだろうかと思っていたら、大熊委員の隣の席から大きな声がした。

嘉山
 「いつも大熊先生とは論争になるのだが、先生の話し方には悪い癖がある。特殊な例を挙げて一般化するという悪い癖がある。金沢大がどうか知らないが、大学病院が悪いというのなら、じゃあ一般病院がちゃんとやっているという証拠を示してもらいたい。天下の大熊先生ともあろう人が、と思う。山形大病院では医療事故の存在を隠しただけで教授が処分された。先生の論法でいくのならば、山形大の特殊例を見れば大学病院は実に素晴らしいことが分かると言わなければならない」

 実に鮮やかなカウンターパンチだったと思う。実は、ミクロでマクロを語るのは日本のマスメディア全部そうであって、癖でも何でもなくて、そういう風に記者を育てている。私も現役の時によく「データはいいから実例を見つけて来い」と言われたものだ。傍聴していたマスコミの連中は、嘉山委員の批判は自分にも向けられていることに思い当たっただろうか。

嘉山委員の発言に戻る。
 「福井先生のご質問にお答えすると、教養部が解体されて前倒しになっている。コアカリキュラムとアドバンスと全国にデコボコはあったがCBTなんかカンニングできない仕組みが導入されて随分と均質化された。先生が大学病院にいたころよりは全国のボトムが上がっている。大部分は臨床研修で良くなっている。でも将来ちゃんと働けないような少数の人もいる。そういう人も含めてきちんと質を担保しないと医療への信頼回復することがなくなっちゃう。これはevidenceである」

小川
 「大学と大学以外という括り方はやめていただきたい。大学がなければ医師は
できないのであり、同様に市中病院も欠かせない、それだけのことだ」

吉村
 「先ほど、制度が入ったのは専門分化が進み過ぎたからプライマリケアを診られるようにとの趣旨との話だったが、プライマリをいつやるのかは重大な論点だろう。今のようなシステムがいいのか。2年終わった段階で即座に担えるなら、ある意味今のような医療崩壊にはなっていないはず。大学の医師派遣能力が失われたという話にしても、中堅なら派遣だろうが、5年目までは育成の一環として一線に出てみるということのはず、その二つは分けてもらわないと。後期研修につながるよう、専門医の育つところで初期研修も行うべきではないか」

舛添
 「本会議の開始がズレたので最後までいられた。いろいろなご意見ありがとうございます。これ提案というか厚労省、文部科学省ともにやってもらいたいのが実態調査とアンケート。対象は学生でも研修医でもいい。金のためなのか、何がイヤで大学を離れるのか。読売私案のように行き先を決めるのは反対だ。ペイを一緒にするという話、これは必ずしも悪くない。でもペイが悪くても、どうしても行きたいところへ行くというのなら意味がなくなる。その辺り、ここにも様々な立場の先生方がいらっしゃるので、ご協力いただいて、今の現場の意識を知りたい。それなしに読売のような提案をして、医師を計画配置しても医学生に規制はイヤだと言われたらどうするのか。それから現場で研修を担っている先生たちにも、教育現場はどう考えているのか外口局長と新木課長、早急にアンケートして実感をつかんでおきたい。それをたたきだいに議論すべきだろう」

次回は11月18日だそうだ。

(この傍聴記はロハス・メディカルブログhttp://lohasmedical.jp にも掲載されています)

2008年10月23日

臨時 vol 149 「在宅医療への移行は患者を救えるのか?」

2008年10月23日発行

           医療環境情報研究所 大谷勇作


 既知のことではあるが医療崩壊が言われている現在、病院数は9,000を切り(2006年10月時点、 8,943病院)、さらなる医療費抑制政策によって病院数の減少が加速する一方、無床の診療所(開業医)数は増加傾向にある(なお、有床の診療所は減少傾向にある)。すなわち、病院の勤務医数は不足傾向、なかでも必須とされる救急、産科、小児科、外科などの診療科の勤務医数は過酷な勤務状態から大幅な減少傾向にあり、求められる医療と提供できる医療のバランスが大きく崩れつつある。

 さらに、今回のテーマである在宅医療については、提供される医療・看護・介護の内容や受け入れ体制の良否はともかく、療養病床の大幅な削減や介護福祉施設の不足の結果、否応なく、病院から在宅への患者の移行が促進されてきている。

 以上のような医療提供体制の変化が実際に在宅へ移行する患者(家族を含む)に対してどのような影響を与えるのか、特に、在宅患者自身だけでなく、在宅患者を支えるべき地域社会(地域医療)へ与える影響を全体的に考察した報告は、いまだ見られないように思われる。また地方医療の崩壊が言われている現在、その影響の大きさは予想を超えるものと推察される。

 筆者はこれまで、地域薬剤師会(横浜市中区薬剤師会)とともに、地域医療(地域とはいっても対象は大都市ではあるが)における薬局のあり方を模索してきた。今回は、その活動を通じて得られた「在宅医療から発生する医療廃棄物の処理」という観点から、病院から在宅へ患者が移行することでどのような問題が発生するかを考察し、現在の政策の問題点を指摘したい。


 医療廃棄物(特別管理廃棄物/廃棄物処理法:定義や分類の詳細については各専門書をご参照下さい)は、病院において大量に発生するが、病院という集中した場所(1ヶ所)に存在しているため、保管や回収が非常に容易である。しかし、病院数が減少し、診療所数が増加すると、医療廃棄物が発生する場所も分散し広範囲となることから、回収が困難となる。すなわち、個々の診療所での保管場所の確保や回収などの費用の問題も発生してくることとなり、不法投棄の増加が懸念されている。加えて在宅への患者移行は、医療廃棄物の分散を加速し、さらなる問題を発生させるものと推察される(在宅患者による保管場所確保、回収費用負担、不法投棄等)。

 実際に不法投棄については、自治体のごみの有料化の促進に伴い、一般ごみとともに医療廃棄物(注射針を含む)がコンビニのごみ箱に廃棄されていた例や海岸に漂着していた例などが、すでに多数報告されている(医療廃棄物研究会『医療廃棄物研究』「国内マスコミ情報」参照)。また最近では、筆者在住の東京都多摩市広報(2008年8月20日)に、在宅医療から発生した点滴袋やチューブ類(針付き)の廃棄に対する注意が掲載されていた。実際に廃棄された例があったためと考えられる。

 このように、医療施設の分散化や在宅への患者移行は、医療廃棄物も分散化させるとともに、個々の排出する量が病院より少量となるため不法投棄への意識を薄れさせることとなり、さらなる不法投棄の増加を促進させる危険性がある。なお実際には、診療所から発生する医療廃棄物の総量のみならず在宅医療廃棄物(液体も含む)がどのくらい発生しているか、総量の把握はなされていないというのが現状であり、拡散の状況も不明である。

 また、医療廃棄物に含まれる感染性廃棄物は針刺し事故などにより感染の危険性があるが、医療廃棄物の存在する場所が拡散することで、病院という特定の場所で抑え込まれていた感染性廃棄物を原因とする感染の問題をも、拡散させてしまうのではないかと懸念される。

 廃棄物処理法(「廃棄物処理法に基づく感染性廃棄物処理マニュアル」2004年3月)の改正により、現在、多くの病院では使用済み「紙おむつ」を感染性廃棄物とする場合が多くなっているが、在宅患者から発生する使用済み「紙おむつ」については、一般廃棄物として廃棄される場合の多いことが調査結果からも示されており(高橋洋一、大谷勇作、他「在宅医療における医療廃棄物の発生及び排出状況に関する調査(1)-薬局及び看護ステーションからの情報-」第32回日本薬剤師会学術大会(1999)など)、その対応状況はバラバラであるというのが現状である。在宅医療・看護・介護では感染例はほとんどないとの報告もあるが、実際の調査では在宅患者においてもMRSAなどの感染例が多数確認されていることから、在宅への移行によって患者の感染数の増加(拡散)が予想される。のみならず、老老介護の状況となりつつある現在および今後を考えると、患者だけでなく介護している家族への感染の拡散(二次感染)といった危険性が考えられる。

 発生する在宅医療廃棄物の回収については、従来、地域の病院・診療所や看護ステーションなどが個々の努力で行ってきたが、人的(作業負担等)かつ費用的な問題だけでなく、特に感染性廃棄物についての対応方法や回収のあり方については不完全な状態のままである。また最近では、訪問看護での駐車が違反とされる例も報告されており、在宅医療・看護のサービス提供と同時に行ってきた医療廃棄物の回収も不可能となりつつある。

 病院から在宅への患者の移行にあたっては、今回、在宅医療・看護・介護で発生してくる医療廃棄物処理の視点から考察しただけでも、多くの社会的な状況(在宅医療・看護・介護とは無関係に思われる種々の規制など)が関与・影響しており、種々の問題を発生させる可能性のあることが確認された。このことからも、当然かつ基本的なことであるが、一つの医療政策を進めるにあたっては、現状の把握と将来的な影響をしっかりと認識することが大切であり、逆に医療体制全体を崩壊させてしまう一因とならぬよう十分な検討が必要と考える。


 最後に、在宅医療廃棄物の処理対策の一つとして、地域(横浜市中区)薬剤師会と薬局が医療廃棄物(使用済み注射針や医薬品、不要医薬品など。今後、在宅での癌治療などの増加に伴い、抗癌剤など医薬品の廃棄の問題も増加するものと予想されている)の回収を10年以上前から行ってきた例を紹介する(http://www.hamayaku.or.jp/)。

 当時、地域コミュニティにおける個々の薬局の役割(生き残り方)を再検討していた時期でもあり、開始にあたっては、医療廃棄物の処理に関係するための資格(最終的には薬剤師の資格で可となる)や廃棄物自体の取扱い方(回収の仕方や保管の仕方など)などについて、行政とのやり取りで多大な苦労と時間を要した。

 このような活動を容易とした条件は、薬剤師会や薬局関係者の意識が高く協力的であったことだけでなく、周辺の医療関係者や施設などとの連携を含め、小規模な地域コミュニティの中での活動であったためと考えられた。しかしその後、横浜市中区といった小さな地域から始まった活動は、横浜市全体へと拡大できた。このことから、さらなる規模への拡大も可能と思われる。

 薬局を利用した医療廃棄物の処理システムはその後、他の地域薬剤師会の活動へと反映された。しかし、必ずしも横浜市薬剤師会と同じ認識の下で行われた訳ではないため、全体的な盛り上がり、すなわち社会的な認知に欠ける状態となっており、残念ながら一般の方々にはほとんど知られていないのが現状である。

 病院から在宅への患者への移行をスムーズかつ適切に受け入れる体制(地域医療・看護・介護の体制)を構築していくためには、上記のような地域コミュニティの中で育成されたシステムを活かすことが大切である。そのためにも個々の活動の掘り起こしと支援が必要と考える。

2008年10月22日

臨時 vol 148 「日本版総合医は漢方を活用すべきである」

2008年10月22日発行


         慶應義塾大学医学部 漢方医学センター長 渡辺賢治


はじめに

 MRICの臨時vol.133で紹介された「医療における安心・希望確保のための専門医・家庭医(医師後期研修制度)のあり方に関する研究」班会議の記録もしくは研究班ホームページをhttp://medtrain.umin.jp/index.htmlをご覧いただいた方も多いかもしれない。その中には「産婦人科、小児科、救急などは分かるが何故漢方なのだろう」と疑問を持たれた方もいらっしゃるのではなかろうか?そうした方々に何故漢方なのか、という説明責任があると考え、本稿を記す。

 本研究班は「安心と希望の医療確保ビジョン」具体化に関する検討会の発展形として発足した。目的はホームページで土屋班長が紹介しているが、「様々な立場の医療者が議論・検討を重ねることにより、医師の教育研修内容、つまり、国民がいかなる人材を望んでいるかという中長期的ビジョンと医療現場の現状を見据えた上で、各診療科の研修、家庭医・総合医の養成、在宅医療の教育、専門性の教育など、具体的な後期臨床研修制度のあり方について喫緊の課題として調査研究を行う」ことである。

 班の名前にもあるように専門医・総合医(家庭医)双方について後期研修のあり方を検討するのが目的である。「総合医」に関しては少し用語の混乱があり、家庭医、総合医、プライマリケア医、総合内科医など様々な名称で呼ばれていて統一されていないが、その意味するところは同じである。すなわち地域に根ざし、日常診療の8割を占めるcommon diseaseを高いレベルで診断・治療し、各領域の専門医と連携する。この場合地域の診療所で開業している場合もあるし、病院で総合診療を行うホスピタリストの場合もあろう。

 ではどうしてcommon diseaseの診療に漢方が必要なのであろうか?項目を分けて説明させていただきたい。


1.医師の8割が日常診療で漢方を用いている。

 明治政府が医制を布いた1968年、数百年にわたってわが国の医学の主流であった漢方に代えて、西洋医術を採用したことで、数ある漢方医の団体は姿を消した。1874年には西洋七科(理科,化学,解剖,生理,病理,薬剤,内外科)を定める新医制が布かれ、1883年には医術開業試験規則および医師免証規則を定めていった。これに対し漢方団体はさまざまな抵抗運動をし、政府議会への請願を行ったが、最終的に漢方医側提出の医師免許改正法案が議会で否決され、そして指導者の相次ぐ逝去に伴い、明治三十五年(一九〇二)には漢医存続運動はまったく終焉してしまう。いわば長い伝統を有する自国の医学である漢方を、富国強兵・脱亜入欧の政策の中で棄て去ったともいえる。

 しかしながら漢方は少数ながら綿々と医師・薬剤師が継いできて、1976年に大々的に医療用漢方製剤の登場を見るのである。その後漢方を使用する医師は漸増し、最近の日経メディカルの調査では医師の8割が漢方を日常診療に用いるほど普及している。日経メディカルでは年2回定期的に漢方特集を組んでおり、使用状況超差を定期的に行っているが、大学病院勤務医師、病院勤務医師、開業医師ともにどの分野においても7割以上の医師が用いている。一番多いのは産婦人科であり、9割以上である。最近では大建中湯が外科領域で用いられていることが多く、慶應大学病院の場合大腸がんの術後クリニカルパスに入っているため、外科を回る研修医は全員漢方に触れることになる。

 では実際にどの程度の国民が漢方を服薬しているのであろうか?OTC薬は漢方市場の2割を占め、最近ではメタボ対策の和漢箋、ナイシトールといった市販の漢方薬が売上を伸ばしているし、漢方便秘薬などと「漢方」がつかなくてもカコナールやコッコアポSといった商品名で売られている中にも漢方製剤が数多く存在し、その実態の把握はできていない。医療用漢方製剤に関しても実数を把握することは困難であるが、株式会社ツムラから提供していただいた資料では感冒に用いる漢方薬の売り上げから一人5日処方された場合と想定して延べで1700万人が使用していると推察された。その他の疾患を合わせればもっと多いことは言うまでもない。


2.漢方医学教育は整備されつつある

 このように漢方は卒後医師が多く使っているが、多くの医師が卒前教育なしで医師になって突然漢方を使い始めていた。それでは困るというので、2001年の文部科学省の医学教育コアカリキュラムには漢方教育が盛り込まれた。その影響で現在は80ある医学部・医科大学すべてに漢方教育が導入されている。今後卒業する医師たちは少なくとも学生時代に漢方に触れてくるのである。

 しかしながら急に漢方卒前教育が普及したために、教育制度が整備されていなかった。日本東洋医学会では2002年に『入門漢方医学』を出版した。本教科書は日本東洋医学会が初めて出版したものであるが、学生が学ぶには高度であり、専門医が学ぶには安易である、ということから卒前の学生向けの教科書は内容を絞り2007年に『学生のための漢方医学テキスト』を出版した。

 この教科書の目的としては、漢方処方は卒業すれば誰しも使い始めるので、学生のうちは漢方の物の考え方を西洋医学と対比しながら理解することに重点を置き、疾患別各論の治療は最低限の知識に留めたことが特徴である。

 さらに日本東洋医学会では学術教育委員会を中心に漢方のFDを全国規模で行っており、その成果は日本医学教育学会にて逐一報告されている。日本医学教育学会では第37回から39回まで漢方医学教育に関するワークショップを行い、40回では一つのセッションとして独立した。標準化教育に向けての努力は現在も続けられている。

 もう一つの専門医向けの教科書を現在作成中であり、近々に出版される予定である。ちなみに漢方専門医は専門医制評価・認定機構では多領域に横断的に関連する学会の専門医として認定されている。日本東洋医学会http://www.jsom.or.jp/html/index.htmは創立1950年で、日本医学会の第87分科会であり、現在会員数は8561名(医師7044名)、専門医数は2439名である。

 このように卒前、卒後、特に後期研修プログラムについては整備が進んでいるが、実際に漢方を用いている医師数を考えると専門医数2439名は少なすぎる。漢方専門にやらなくても日常診療で漢方をある程度用いている医師のために、認定医制度を新たに設置したので、今後は認定医増えていくことが望ましい。


3.漢方薬の処方実態

 上記のように医師の8割が漢方を日常診療に用いており、さらに国民の多くがそれを利用しているが、売上ベースでみると漢方の市場シェアは医療用製剤全体の1.2%にしか過ぎない。要するに漢方を使用する医師が多いといってもファーストチョイスとしてどんどん使う、という状況にないことを表わしている。

 一見矛盾するこの数値は、ほとんどの漢方使用が各サブスペシャリティーの領域でごく限定された処方のみしか用いられていない実態を明らかにしている。一部の漢方専門医は、漢方医学的使用法で治療成績を上げているが、ほとんどの医師は「月経困難症には桂枝茯苓丸」といった病名投与である。上述の教育の中で、卒前と専門医教育は充実されつつあるが、漢方使用のマジョリティーを占める総合医たちを対象とした漢方教育が大きく遅れを取っている。8割の医師が漢方を用いている、ということは20万人の医師が漢方を用いているのに、専門医がたった2400名しかいないのである。日本東洋医学会では専門医よりゆるやかな認定医制度を設けたので、もっとこれを利用する医師が増えることが望まれる。

 一方で実際には漢方の売り上げは伸びているにも関わらず市場シェアはだんだん低下している、という矛盾した現象もみられる。それは漢方薬という生薬原料を用いているにも関わらず、2年ごとの薬価改定で薬の値段そのものが下がっているからである。実際には中国経済の発展に伴う人件費の高騰、元高基調の為替レード変動などにより原材料費である生薬の価格は年々高騰している。日本の漢方製剤メーカーはこの薬価低下と原料高騰のはざまで漢方を守るために四苦八苦しているのが現状である。漢方薬は高い、というイメージを持たれている方も多いと思うが、実際には漢方製剤は非常に安価である。最も高い漢方製剤である柴苓湯ですら1日薬価として485.1円である。葛根湯はよく用いられる漢方薬であるが1日3包服薬して72.75円である。ちなみにタミフルは1日2カプセル服薬したとして727.4円である。

 ファーストチョイスとして用いられたとしても薬剤費が上昇することは考えにくく、むしろ医療費削減に役立つと考えられる。漢方がファーストチョイスになる疾患は多々ある。月経前症候群や更年期障害といった女性医療の分野や、パニック障害や軽度うつなど心療内科分野、また、冷えや腰痛、膝関節痛といった高齢者に多くみられる疼痛に対しても漢方が有効である。何がファーストチョイスになれるかについては整理が必要だが、種々の領域においてもっと積極的に用いられてもいいと考えられる。


4.漢方薬の医療経済的効果

 漢方薬の使用により医療費削減が期待されているが、なかなかその実態がつかめていない。一つには上記のようにマーケットベースで1.2%しかシェアがなく、非常にマイナーなので、医療経済全体に及ぼす影響は明らかではない。しかしながらいくつかのエビデンスはあるのでそれらを紹介する。

1)インフルエンザに対する麻黄湯の効果(窪智宏:小児インフルエンザ感染症と麻黄湯Medicament News 2005 Sep 5; 1846: 15.)

 2004年1月から5月までに当該施設を受診した38℃以上の発熱を含むインフルエンザ様症状を呈した5ヵ月から13歳までの60症例のうち、インフルエンザ迅速キットにて確認された症例をタミフル単独群、麻黄湯単独群、併用群の3群に分け比較検討した。誰もが併用群が一番いい結果であると予測した研究であったが、解熱までにかかった時間はタミフルが31.9時間であったの対し、併用群21.9時間、麻黄湯単独群17.7時間と麻黄湯単独群が一番効果が高かった。ちなみに麻黄湯は1g当たりの薬価は8.75円で、大人量は1日7.5gである。医療経済的にも単独群が最も安価であることはいうまでもない。

2)かぜ症候群における薬剤費の薬剤疫学および経済学的検討-漢方薬と西洋薬の経済性における比較研究 赤瀬朋秀ら:日東医誌50巻4号, 2000)

 本研究は前述のものほど厳密ではない。1997年12月より1998年2月の3ヵ月間にかぜ症候群で調査対象施設を受診し、薬剤を投与され、かつ再診のなかった患者875名を対象として、対象患者を西洋薬治療群、漢方薬治療群、西洋薬漢方薬併用群の3群に分類し、各々のカルテ及び処方せんより薬剤数、投与日数、薬剤費を調査し比較検討したものである。結果は前述の研究と類似している。平均処方日数は西洋薬治療群では6.7日であったの対し、併用群で5.7日、漢方薬単独群で4.0日であった。使用薬剤数はそれぞれ2.9剤、2.7剤、1.2剤で平均薬剤費はそれぞれ203.8円、215.9円、119.6円であった。この数字はまだタミフルが今ほど用いられていない時代である。これをもとに試算した結果、かぜ症候群で漢方薬がファーストチョイスとなることで、年間415億円の経費削減が可能と結論している。

3)療養型病床群における漢方治療導入の医療経済効果(下手公一ら:医療経営情報 No.113, 16-18, 1999)

 大病院で急性期を過ごした脳血管障害後遺症で、西洋医学的にはほぼ治療を完了した患者が多く入院している200床の療養型病床群で、食欲不振・易感染症などに対して西洋医学的にはあまり有効な治療がないということで漢方薬を積極的に導入した。その結果、感染症が低下し、一人当たりの単価が減少した。その理由の大きなものは抗生剤であった。その結果1日1人当たりの薬剤費は1394円から741円となり、653円/日/人の節減となった。これを1年間に換算すると全体では653円/日/人×200人×365日= 4,767万円の削減となった。その他精神不隠や意欲低下などの精神症状に有効で患者さんを人間らしく生活させてあげることができた、食欲不振が改善し点滴をすることが少なくなったなどが導入の効果として挙げられている。

4)大腸癌手術における大建中湯投与の入院日数短縮効果について(今津嘉宏ら:Prog. Med. 24, 1398-1400, 2004)

 慶應義塾大学病院外科において1997年から2002年 に大腸癌手術が施行された469例を対象に漢方薬大建中湯使用群と非使用群で比較したところ、全体、開腹手術群、内視鏡手術群いずれにおいても大建中湯投与群で在院日数が短縮された。

 ここに挙げたのはほんの一例に過ぎないが、漢方の医療経済効果についてはもっともっと研究が進んで然るべきと考える。漢方の研究費は非常に限られたものであり、基礎研究による科学的検証も臨床的なエビデンスや医療経済的研究も遅々として進まないのが現状である。米国では1998年に補完・代替センター(national center of complementary and alternative medicine)http://nccam.nih.gov/ができて以来、研究予算は年々増大し、現在1億2000万ドルほどの年間研究予算を有する。そのほかに、国立がん研究所(national cancer institute)ではoffice of cancer complementary and alternative medicine(OCCAM) http://www.cancer.gov/cam/を1998年に開設し、こちらも1億2000万ドルほどの予算を有しており、この二つを合わせると年間2億4000万ドルほどの予算となる。その中には医療経済的効果の研究も多々あり、日本として見習うべきであろう。


さいごに

 以上日本版総合医のあり方が検討されている中で、漢方を活用できれば1)漢方使用そのものにより医療費削減効果が可能 であり、2)効率良い治療により専門医に回す症例が減少し、かつ患者満足度が上がるといったことが期待される。しかしながらそれらを実証していくためには研究環境の整備ならびに研究助成の増額が必要であろう。

 最後に余談ではあるが、米国NIHおよびFDAが数ある補完・代替医療の中でも伝統医学をwhole medical systemsとして他のものと区別し、西洋医学と同等に体系だった医学として位置づけた。

 こうした世界の動きに、中国、韓国は政府主導で伝統医学の国際戦略を立てているのに対し、残念ながらわが国にはそれがない。まずは政府に専門部局がない。中国の場合、国家中医薬管理局はおよそ70名が働く伝統医学専門の政府機関であり、厚生省にあたる衛生部の傘下にある。こうした機関は日本に存在せず、研究費も限られているために、中国や米国のような大胆な科学的推進ができず、世界の潮流から遅れを取っている。

 その一方で、日本の利点も多々ある。前述のように内視鏡手術と漢方の組み合わせなど、単一の医師ライセンスであるが故にできる真の統合医療である。最先端医学に漢方を組み合わせて医療費削減を実現し、新しいスタンダードを構築できるのはわが国だけである。総合医が漢方を活用することで裾野が広がり日本発の医療のグローバルスタンダードを発信してゆくことも夢ではないと考える。

2008年10月21日

vol 20 「医療/公衆衛生×メディア×コミュニケーション」

2008年10月21日発行

    第14回 公衆衛生のプロフェッショナルとヘルスコミュニケーション 


 ハーバードでの勉強を開始してから、2か月がたとうとしている。来て間もない学生たちに、シャワーのように降り注ぐ二つのキーワードがあることを発見した。それは「公衆衛生」と「リーダーシップ」とは何かということである。この二つを中心に、どういったシステムでヘルスコミュニケーションの学びが組み立てられているのかを書いていきたい。


【公衆衛生のプロフェッショナルとは?】

 公衆衛生とは何かということに関しては、前回(9月号)でも述べたとおり、入学式からの話題でもある。アメリカの非営利組織であるInstitute of Medicine (通称IOM)は”Fulfilling society’s interest in assuring conditions in which people can be healthy”(人々が健康でいられるような状態を確保することで社会の利益を満たすこと)と定義している。*1医学が、個人を対象にした治療をベースにするのに対し、公衆衛生は人々全体をターゲットとした予防をベースとする。

 治療を対象にする医療においては、医師やその他臨床従事者は、一定のトレーニングを経て資格を持つ必要がある。これは日本に限らない。しかし、こと、公衆衛生においては、“人々の疾患予防をするプロフェッショナルという定義しかなく、医療の分野のプロフェッショナルに比べてあいまいなイメージとなっている”*2。

 実際に、皆さんは、「公衆衛生のプロ」という言葉を聞いて、どのようなイメージを連想するだろうか?

 疫学者や、生物統計学者であったり、もしくは、医療政策に従事する政策立案者やヘルスコミュニケーションのプロであったりなど、人によって思い浮かべるものは異なるだろう。そして、どの職業もが正解である。そして、公衆衛生の守備範囲が、医学、法律なども含む多岐にわたるため、この分野のリーダーとなるべきプロフェッショナルに求められることも幅広くなるとのこと。具体的には、「自分の専門性を持つと共に、幅広い、まるでオーケストラの指揮者のように全体のメロディーを奏でられること」が必要とされるとある。*3


【ヘルスコミュニケーションのカリキュラム】

 公衆衛生の分野のプロフェッショナルは、多くの場合、仕事を通じて養成され、必ずしも公衆衛生大学院が必要であるとは限らない*3としながらも、そのようなリーダー養成を目指し、ハーバード公衆衛生大学院は、1922年にアメリカ最初の公衆衛生大学院として設立された。*4

 そして、2007年、ヘルスコミュニケーション専攻という新しい分野がこの大学院に設立されることになった。この専攻は、二年間のMaster of Scienceに在籍する学生か、博士課程の学生に門戸が開かれている。ヘルスコミュニケーションに関わる既定の単位数を取得し、認定書が与えられることになっている。

 具体的には、以下のようなコースが用意されている。(一例)*5

・Health Promotion through Mass Media
・Media & Health Communication: Practical Skills
・Developing Radio Communications
・Future of Health Communication: New Media and Emerging Technologies
・Managing a Media Campaign

 特徴的なことと言えば、ヘルスコミュニケーション専攻と言っても、修士課程のはじめからコミュニケーションのコースが始まるわけではないことである。ハーバード公衆衛生大学院全体に言えることだが、最初の秋学期は、ほとんどの生徒が、疫学・生物統計学・社会疫学等の公衆衛生の基本と、それぞれの専門となる授業(国際保健や経済学等)を並行して履修していく。そして、次の春学期(日本でいう第二学期にあたる)から、より専門度の高い授業を履修していくような形になっている。前述の“公衆衛生のプロ”として求められるものが、専門性に加えて全体を幅広く見てコーディネートできる能力であるとすると、これらの必修授業は、将来のコーディネート力を深める上でも、有意義である。

 また、「あいまいさというのは、公衆衛生の分野におけるある意味での“友達”である。公衆衛生の分野は、常に部分的な知識と定かではない結果によって特徴づけられる」という言及があるように*3、ヘルスコミュニケーションも例にもれず、常にあいまいさや不確実性との戦いの分野でもある。これに対し、ヘルスコミュニケーション専攻長でもあるDr. Vish Viswanathは、「信頼のおけるエビデンスをコミュニケーションの分野で普及していくこと」を大きなテーマに掲げ、以上のカリキュラムを組み、ヘルスコミュニケーションの学問分野としての確立に力を注いでいる。*6

 講師陣は、アメリカNational Cancer Instituteで1997年よりDCCPS(Division of Cancer Control and Population Sciences)を立ち上げ、同Divisionで50名を超す研究者を率い、ヘルスコミュニケーションの研究を進めてきた前述のDr.Viswanath氏を筆頭に、研究者、ニューヨークタイムズやワシントンポストで記者として勤務していたジャーナリスト、広告代理店やコンサルタント出身の講師陣などがそろっている。

 大学院では、コミュニケーションや、疫学等の知識のほか、前述の「公衆衛生におけるリーダーシップとは」というような“精神論”的なレクチャーも多くある。疫学や生物統計でしっかりと基礎を固めながら、常に「リーダーシップ」論やディベートを通して、一人一人が遂行すべきミッションを意識させる教育カリキュラム。今後の展開に胸を躍らせている。

*1 Institute of Medicine (2003a) The future of the public’s health in the 21st century, Washington, DC. National Academy Press
*2 Turnock, B.J. (2004) Public Health : What it is and how it works, Sudbury, MA: Jones and Bartlett
*3 Howard K. Koh and Michael McCormack, Public Health Leadership in the 21st Century
*4 Harvard School of Public Health http://www.hsph.harvard.edu/about/departments-degree-programs/
*5 Health Communication Concentration at Harvard School of Public Health
http://www.hsph.harvard.edu/health-communication/forms/index.html
*6 Viswanath Lab
http://www.hsph.harvard.edu/viswanathlab/index.htm

林 英恵(はやし はなえ)

早稲田大学社会科学部卒業。ボストン大学教育大学教育工学科修了後、株式会社マッキャンヘルスケアワールドワイドジャパンにて、アソシエイトプランナーとして勤務。2008年秋よりハーバード大学公衆衛生大学院修士課程(ヘルスコミュニケーション専攻)進学。

2008年10月20日

臨時 vol 147 「有床診療所を医療崩壊の救世主に」

2008年10月20日発行


          第22回全国有床診療所連絡協議会総会準備委員会委員
          熊本県有床診療所協議会理事
                              上塚高弘



 最近、わが国の病院では、勤務医の先生方が過酷な条件にもかかわらず使命感に支えられて献身的に働かれることにより、かろうじて医療が崩壊するのを防いでいるが、それも限界に近づいているという状況が明らかにされています。そして、わが国にはもう一つ、日本の医療を支えてきながら、その存続が危ぶまれている施設があります。それは有床診療所(以下有床診)です。

 有床診とは19床以下の入院施設を有する医療機関です。戦後、病院を必要な分だけ作る社会的条件が整っていなかった時に、一時的な入院施設として作られたのですが、院長が施設内か隣接した土地に住居を持ち、24時間地域の医療ニーズに応える有床診は日本の風土にマッチし、日本の地域医療の原点となりました。

 厚労省の資料には、なぜか「医師が一人必要な他には何も規制がない」と紹介されていますが、実際には建物には規制があり、特に10床以上の診療所は病院と同様に、病室の広さ、廊下幅、非常口や階段の角度、ドアの開く方向など細かい規定があります。スタッフに関しては、昔は看護職(看護師、准看護師)はいなくてもよかったのですが、それでは患者さんの安心が得られませんから、大抵の有床診は相当数の看護職をおいていました。現在は最低1人の看護職が必要になっています。

 入院医療が必要な患者さんの中には、高度な組織医療を行う大規模な施設より、なじみの医師や看護職がいて、家族も見舞いに来易い近くの施設を望んでいる方がおられます。むしろその方が多いでしょう。有床診はそのような患者さんに適しています。さらに、十分な経験を積んだ医師が独立して開業するとき、病床は身につけた技量を発揮するのに役立ちます。離島や僻地では有床診が唯一の入院機関という所もあります。また、日本のお産の約半分は有床診が引き受けているなど、有床診は日本の地域医療で重要な役割を果たしているのです。

 しかし、有床診は入院の診療報酬が低く抑えられてきたために経営は困難で、昭和45年には全国で2万9841件あった施設が、最近では毎年約1000施設が病床を閉鎖し、平成18年には1万2858件になっています。特に土地や人件費の高い都会では殆ど姿を消してしまいつつあります。

 現在の有床診の殆どは病棟の収支は赤字で、それを外来の黒字で辛うじて補っている状況です。それなら病棟を閉鎖すればよいようなものですが、地域の患者さんからは入院施設として残して欲しいという要望があり、また、自分がやりたい医療に病床が必要なため、ぎりぎりまで病床を手放さないでいるのです。

 有床診が存続困難になってきたのは、医療法13条で有床診の入院期間が療養病床を除いて48時間以内と規制されていたためです。実際には院長の判断で延長してよいことになっており、診療報酬も48時間に限定せず、無期限に入院料を認めていたのですが、13条の弱みがあるために、入院点数が低く抑えられていても私たちは文句が言えなかったのです。

 しかし、長年の13条撤廃運動が実を結び、19年1月には48時間規制がなくなりました。晴れて正式の入院施設として認められたわけです。われわれは当然入院点数もそれにふさわしいものになると期待していました。しかし、20年4月の診療報酬改定では有床診の入院料は従前と全く変わりませんでした。

 参考までに病院と有床診の一般病床の入院料の比較をしてみます。

 有床診の入院料は、看護職5人以上の「入院基本料1」と、看護職1人以上の「入院基本料2」があります。「入院基本料1」を算定しているところは、実際には殆ど7人以上の看護職を擁していますから、19床でも患者と看護職の比率は3:1以上になります。そこで、患者対看護職の比率が3:1の病院と、有床診の1日の入院料を比較してみます。

 入院7日以内は病院が1万3820円に対し、有床診は8100円、8~14日でも病院の入院料は変わりませんが有床診は6600円に下がります。15~30日では病院は1万1460円、有床診は4900円、31日以後は病院が9540円で、有床診は4500円です。

 これらの数字は福祉施設、例えば小規模介護福祉施設(多床室)の入所料が、日数に関係なく軽症の要介護度1でも1日8030円、要介護度5では1万720円であるのに比べるとかなり安いことが分かります。

 病院と比較した場合、有床診では看護職の5人とか7人とかの数字は外来を含めた数で、全員が病棟に勤務しているわけではないこと、看護職の看護師の比率が求められていないこと(病院は看護職の40%以上が看護師です)、医師が入院専任でなく外来も診ている事など病院より不利な点もありますが、病院では100床以上であっても夜間になると大抵の場合当直医は1人で、患者さんにとっては自分の主治医でない先生に管理をまかせることになりますが、有床診は24時間すべての患者を把握している院長が管理しているわけですから、入院患者にとってはかえって安心ということも出来ます。(学会などで診療所を離れるときは、携帯電話で指示し、緊急事態では連携医師に対応を頼むことになります)

 実際、平成17年の日医の調査では、入院患者の総合的満足度は、有床診では「大いに満足」55.9%、「ほぼ満足」26.3%で、病院の31.8%、23.7%を大きく上回っています。

 いろいろな条件を考慮しても、有床診の入院料が医療を行っているにもかかわらず福祉施設より安いとか、おなじ看護職員比率3:1の病院の点数の半分以下というのはおかしいのではないでしょうか。私たちは少なくとも3:1の病院の入院料の8割程度の点数は認めてもらいたいと思っています。

 有床診療所の入院点数が上がり、経営が苦しくなくなって有床診が復活すれば、今まで行く先がないために遠くの病院に入院していた軽症患者を受け入れることが出来、患者さんの利便に貢献すると共に、病院の混雑緩和に役立つと思います。今後療養病床削減で医療難民になる恐れのある高齢者も救うことが出来ます。しかも、病院より安い入院料ですから、医療経済にとっても有意義です。有床診を活性化し、日本の医療崩壊の救済につなげようというのが私たちの提案です。

 平成21年8月1日(土)2日(日)に全国有床診療所連絡協議会総会が熊本で開催されます。そのキャッチフレーズが「有床診療所を医療崩壊の救世主に」です。有床診療所問題について熱く語り合いませんか。

2008年10月16日

臨時 vol 146 「医療崩壊」と職業倫理;医者にとってのインフォームド・コンセント」

2008年10月16日発行


                大阪府立成人病センター
                血液・化学療法科
                平岡 諦


 現在の医療危機は「医療崩壊」(1)と呼ばれている。患者にも医者にも不幸な事態である。低医療費政策、患者からの不信感、および医師法第21条を介した検察の介入が主な原因と考えられる。その対応が模索されているが、後二者については職業倫理との関係も論議しておく必要があると考える。


1;インフォームド・コンセントのとらえ方;

 「ヒポクラテスの誓い」が「パターナリズム」に基づくとして否定され、それに代わるものとして「患者の自己決定」に基づくインフォームド・コンセント(以下、イ・コ)が法理(生命倫理)として発達した(2)。その背景には情報公開・開示が進み、情報化社会と呼ばれるようになった社会の変化がある。この理念は、日本でも、法理にとどまらず医者の職業倫理の中心理念の一つと成っている(3)。

 「イ・コ」は医者にとっては職業倫理の一つであり、「医者のあるべき姿」の一つであり、努力目標であると考えられる。一方、患者にとっては法理(生命倫理)、すなわち司法上当然のことであり、医者の義務であると考えている。医者は職業倫理の一つとして「イ・コ」の実施に努力するが、いくら努力しても情報の完全な共有はあり得ない。医者に優位な情報格差が残る。したがって、患者にとって不都合な治療結果が生じると、「イ・コ」が不十分であったのではないか、さらに、医者が情報隠しをしたのではないか、という疑念が患者に生じやすい。その結果、患者側からのクレーム、さらに司法判断への依頼が増加しやすい。一方、医者は、患者のクレームが自身の非倫理性に対するクレームでもあると誤解して受け取りやすい。誤解の理由は、生命倫理と職業倫理がともに倫理と呼ばれているためであり、また「イ・コ」が職業倫理の一つに入っているからである。

 「イ・コ」を職業倫理に導入した時点で、医療側は増加の見込まれる患者からのクレームに対する受け皿を準備すべきであった。受け皿のない患者側にとっては、法理に基づいて司法に頼らざるを得ず、その結果が医療訴訟の増加となっている。


2;医者間の健全な相互評価;

 平成10年5月より、私はセカンド・オピニオンを患者に勧める運動を始めた。「イ・コ」を補い、「患者の自己決定」を後押しするためである。その後、医者にとってのセカンド・オピニオンの意義を問う原稿依頼があった。そこで、セカンド・オピニオンとは患者を介した「医者間の健全な相互評価(以下、相互評価)」であること、「パターナリズム」の時代から行われていた「相互評価」に「対診」があるが、「患者の自己決定」の時代になり患者への情報開示が加わって形を変えたのがセカンド・オピニオンであり、その本質は「相互評価」であろう、と論
じた(4)。

 「相互評価」のルーツを考えているうちに緒方洪庵「扶氏医戒之略(以下、医戒之略)」に出合った(5)。その最終第12項の後段に、(主治医に隠して相談に来た患者に対しては、主治医に問い合わせ、その治療方針を聞いた上でなければ、診断し助言を与えることは出来ないと言い聞かせるべき(6)、と云う前段に続いて)、「然りといえども実に其誤治なることを知て之を外視するは、亦医の任にあらず。殊に危険の病に在りては遅疑することなかれ。」とある。「相互評価」という「医の任(課せられた仕事)」が「医戒之略」の最後の最後に記載されているのである。

 「パターナリズム」の時代の「相互評価」は一患者と一医者間の問題解決のために機能した。しかし「患者の自己決定」の時代、すなわち情報化社会となって、一患者と一医者間の問題が、患者の属する社会と医者の属する専門職集団間の問題となるようになった。解決のための「相互評価」も変化せざるを得ない。最近の例をあげると、2002年2月に発表された米国・欧州の内科4学会が共同作成した「Medical Professionalism in the New Millemmium: A Physician Charter」(以下、医師憲章)がある(7)。3つの基本原則と10項の責務として纏められているが、その最終項には専門職に伴う責任を果たす責務として、「職業全体の信頼を傷付けてはならない。お互いに協力することはもとより、専門職としての信頼を傷つけた医師には懲戒を加えることも必要である。(訳;李啓充(8))」と、「相互評価」が記載されている。

 「医戒之略」も「医師憲章」も、始めに医者のあるべき姿が、最後に「相互評価」の重要性が記述されるという同じ構造になっている。すなわち、あるべき姿(モラル)がはじめに述べられ、最後にモラル・ハザードへの対応(自浄機能)が示されている。この構造は、専門職集団がprofessionalism(すなわち自律)を図ろうとするなら必須のものであろう。

 戦後日本の医療界でモラル・ハザードが最も問題となったのは「和田心臓移植事件」であろう。当の和田教授はモラルに合致した行為と考え(9)、一方、周囲は「和田教授のモラルは時代錯誤であり、露骨な人体実験に相当するモラル・ハザードである」と考えて批判した(10)、と解釈出来る。検察は証拠不十分で不起訴とし、日本弁護士連合会は「対診」による「相互評価」の必要性を警告し(11)、そして、医者への大きな不信感を社会に残した。不信感の原因は、モラル・ハザードの問題でありながら専門医仲間からの評価が公表されず、仲間内でかばい合ったと受け取られたことであろう。すなわち専門医仲間が「医の任」を果たさなかったため、医者全体に対する不信感を社会に残したことになる。なお本「事件」が、遺体(あるいは一部、例えば摘出心臓)も証拠隠滅・改竄の対象となる可能性を検察に意識させ、医師法第21条による介入の端緒になったのではなかろうかと考えている。

 医者のモラル・ハザードに対する日本の現在の対処法はどの様になっているだろうか。医療職の集団である医師会は「医師の職業倫理指針」(3)を持っているが、その中にモラル・ハザードに対するハッキリとした規定は無い。専門医を擁する学会で、そもそも職業倫理を規定した学会があるだろうか。この様にみると、日本の医療職集団はモラル・ハザードに対する自浄機能を全く持っていないと云っても良い状況である。患者からみれば司法に頼らざるを得ない状況である。社会から信頼されず、検察から介入されていると嘆いても、自浄システムを作ってこなかった医者の自業自得と云わざるを得ない。「医師のあるべき姿」をいくら多く述べても信頼回復に機能しないことは明らかである。医療職集団が自浄機能を持ったシステムを作ることが必須の事である。現在の専門分化した状況では、専門医を擁する各学会それぞれが自浄システムを構築すること、これが最重要と考えられる。

 ちなみに、「医戒之略」の原作者であるフーフェラントの故国ドイツの自浄システムの状況はどうであろうか。岡嶋道夫・東京医科歯科大学名誉教授によると(13)、「ドイツでは医師職業規則は、医師の憲法とも呼ばれ、医師の義務と倫理を厳格に規定しており、また、医療行為や医療倫理などで問題がある医師に対しては、日本の民事・刑事に相当する処分のほか、医師職業裁判所で、医師も交えた審判により、処分が行われている。」とのことである。また、真野俊樹・多摩大学統合リクスマネジメント研究所・教授によると(14)、「ドイツでは医師会は全員加入である。ここでは、政治的(?;原文のまま)な議論や診療報酬の話はあまりしないようで、むしろ医師の労組が政治的な交渉にあたっているようだ。(中略)日本では考えられないが、ドイツでは医師によるストも行われる。ミュンヘン大学病院でも、2006年3月18日に、大学病院や自治体病院のいわゆる勤務医、医学部を出たばかりの医者中心にストが起きた。」とのことである。この彼我の差は国民性の違いによるものであろうか。

 土居武郎はその著書「甘えの構造」(15)で日本人の精神構造を論じている。その中で「明治以前から日本人の道徳観を形造ってきた義理人情が実は甘えの心理を中核にしたものであり、また明治政府によって行われた天皇制の確立が、階級・階層を超越する国家の精神的中心を据えたという意味で、伝統的な義理人情をふまえた上での近代化への試みであった」と述べている。一方、「西洋的自由の観念が甘えの否定の上になりたっていること」、「神は自ら助くる者を助く」という諺を引き、「それは万人が万人にとって敵である世にあって、自立自衛以外に頼むべきものがないことをいうために用いられているのである。すなわちこの諺は神頼み人頼みを戒めることが狙いであり、「旅は道連れ、世は情け」という日本の諺とはその精神が全く反対である。」とも述べている。

 現在の日本の医者の道徳観は、明治以前からの「医は仁術」(「義理人情」の道徳観に合致する)の上に、これとは(その精神が全く反対である)「患者の自己決定」(西洋的自由の観念)に基づく「イ・コ」を受け入れた形になっている。小松秀樹は「医療崩壊」(1)の中で、現在の勤務医の状況を「立ち去り型サボタージュ」と名付け、勤務医の考え方は「ささやかな誇り、生き甲斐、自尊心、良心、多額の報酬を望んでいない」などであると述べているが、その通りと思われる。これらは「医は仁術」、および「イ・コ」を含む医者の職業倫理を実行し、自身を倫理的と認識していることの自負心であろう。ところがそこに患者(あるいは家族・遺族)から「イ・コ」(西洋的自由の観念)に基づくクレームが来ると、患者は法理(生命倫理)としての主張をしているにすぎないが、医者は職業倫理に反したとするクレームと受けとる事になる(前述したようにこれは医者の思いこみにすぎないが)。それまでの精神的基盤である「誇り、生き甲斐、自尊心、良心」は傷つけられ、更に裁判となるとその傷はあまりに大きい。低医療費政策による職場環境や自らの待遇の悪さが背景にあり、自負心が傷つけられた時点で「プッツンして」、ついに職場を立ち去ることになる。これが「立ち去り」の構造ではなかろうか。(なお、モンスターペイシェントは幼児期の「だだっ子」と同じである。土居武郎が「「甘え」今昔」(15)の中で述べている「甘ったれ」と同じである。「甘え」とは似て非なるものであり、それを演出している隠れた意図にその本質があると考えられるため、上述の患者クレームとは異なる対応が必要である。)


3;自浄システムと自助システム;

 「医療崩壊」と呼ばれる医療危機からの脱却には、患者からのクレームの受け皿を作る必要がある。そのクレームが妥当か否かを評価(「相互評価」)するシステムである。患者からのクレームが妥当であれば会員に懲戒を加える必要があり、そのクレームが不当であれば会員への援護システムとなるであろう。何故なら、学会としての判断を示すこと(勿論公開して社会の批判を受けなければならない)が会員の救いとなるのは、2008年4月25日の最高裁の判決が後押しをすると思われるからである。この判決を突き詰めれば、「診断は臨床医学の本分だから、例外的な特段の事情のない限りは、医学鑑定を十分に尊重すべきだ」と表明したと考えられるからである(12)。医学鑑定に準ずる、学会としての専門家の判断を示せば、司法の力を借りずに大部分の医者・患者間の問題を専門家集団自身で解決することが期待できるはずである。これこそが“professionalism“であり、司法からの自律のシステムであろう。

 患者からのクレームの内容は、当然のことであるが、患者に都合の悪い診療結果に起因する。専門医である会員を援護するためには、学会が会員の診療結果を担保する必要が出てくる。診療結果を担保するためには、「診療結果;outcome」を指標とした専門医制度(あるいは、チーム医療では施設認定制度;以下同様)の確立が必要である。「イ・コ」の時代の患者の望む専門医とは、積んだトレーニングの内容や、責任を持った診療だけではなく、「最低限の診療結果が担保された医師」であろう。すなわち、quality controlで云われている構造(structure)、過程(process)、結果(outcome)のうち、これまでの専門医制度は構造(structure)、過程(process)を担保していたが、「イ・コ」の理念に基づいた専門医制度とは、結果(outcome)が担保されていること、そして、「診療結果の最低ライン」を引き上げる努力(自助努力)の見られる専門医制度ではないだろうか。


4;「医療崩壊」からの脱却;

 自浄機能を持つ会員援護システムと、自助努力の見られる専門医制度は、専門医集団が自律するための車の両輪であろう。「患者の自己決定」に基づく「イ・コ」は医者の職業倫理の中心理念の一つとして受け入れられている。この理念を受け入れた時点で構築すべきであった車の両輪が、いまだ十分に構築されていないのが現状である。「医療崩壊」と呼ばれる現在の医療危機は、起こるべくして起こったと云わざるを得ない。現在の医療危機から脱却するにはこの車の両輪の構築が喫緊の課題であろう。


(1)小松秀樹;「医療崩壊;立ち去り型サボタージュとは何か」朝日新聞社 2006年。
(2)星野一正;「インフォームド・コンセント;日本に馴染む六つの提言」丸善ライブラリー232 平成9年。
(3)日本医師会;「医師の職業倫理指針」平成16年2月制定。
(4)平岡 諦;「セカンドオピニオンの意義」;日本医事新報 2003年3月1日。
(5)平岡 諦;「対診とセカンドオピニオン」;日本医師会雑誌 130(10);1445,2003、および「医の倫理;ミニ時典」日本医師会発行 平成18年、40-41頁。
(6)杉田絹枝、杉田 勇共訳;「フーフェラント;自伝・医の倫理」北樹出版 1995年。
(7)Project of ABIM Foundation, ACP-ASIM Foundation, and European Federation of Internal Medicine; Medicl Professionalism in the New Millennium: A Physician Charter, in Annals of Internal Medicine 136; 243, 2002 & Lancet 359; 520, 2002
(8) 李啓充;新ミレニアムの医師憲章」、週間医学界新聞:連載;続・アメリカ医療の光と影;第一回;連載再開に当たって。第2480号 2002年4月1日。
(9)和田寿郎;「神より与えられたメス」メディカルトリビューン、2000年。
(10)「和田心臓移植を告発する」保健同人社 昭和45年。
(11)日本弁護士連合会;「和田心臓移植事件に対する日本弁護士連合会の警告」昭和48年3月23日
(12) 井上清成;「裁判での医学鑑定の尊重」MMJ June 2008, 524-525
(13)岡嶋道夫;「ドイツにおける医師の職業倫理」、日本医事新報 No. 4052(2001年12月22日号。
(14) 真野俊樹;「海外医療事情;ドイツ・医療保険制度発祥の国」;Medical ASAHI 2008 August 65-68
(15)土居武郎;「甘えの構造」弘文堂 昭和46年。「甘え」今昔;増補普及版平成19年。

2008年10月15日

vol 19 すずかん通信「福島県立大野病院事件 無罪判決」

2008年10月15日発行


                       鈴木寛(通称すずかん)

 去る8月20日、福島県立大野病院事件の判決がありました。産科医の被告は無罪。その瞬間を、私も福島地裁で迎えました。この事件は、帝王切開中の妊婦死亡に関し、業務上過失致死および医師法違反(異状死体届出義務違反)が問われたものです。

 お亡くなりになられた患者様のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族にお悔やみ申し上げます。

 加藤医師の逮捕後、周産期はじめハイリスク医療では、刑事訴追懸念から現場を立ち去る医師が急増、医療崩壊に拍車をかけました。福島県でも平成12年に166人いた産婦人科の現場医師が、平成18年は144人に減少するなど、全国各地で産科空白地帯が急速に拡大しています。

 しかし今回の判決を受け警察庁長官も、「医療行為をめぐる捜査には慎重かつ適切に対応する必要がある」と明言し、今後は、最善を尽くした医師の逮捕・訴追リスクは大幅に減少すると期待されます。

 とはいえ解決すべき問題も少なくありません。

 今回、直接の死因は大量出血。産科医に過失はなかったとはいえ、手術時の全身管理がチームとして充実していれば、最悪の事態は避けられたかもしれません。産科医・麻酔科医の確保と適正配置が急務です。


 また、刑事事件となった発端は、県の事故調査委員会が保険賠償金支払いのために無理やり過失認定したことにありました。強引な過失認定をなくすためにも、無過失補償制度の創設が重要です。

 今回を含め、問題が深刻化しているケースの多くは、公立病院で起こっています。役所の管理下にあるため、役所の「ことなかれ主義」「隠蔽体質」による不適切な指示が、あるいは誠実な対応の機を逸しさせ、患者・家族の不信を招いている可能性もあります。

 医療事故で、ときに患者・家族を刑事告発にまで追い込んでしまうのは何故なのか? 「事実隠蔽の疑念」、それを払拭するだけの「誠実な対応と丁寧な説明」の不足――真摯に受け止めねばなりません。

 不幸な事態が起こった場合、最も必要なことは、医療側からの患者・家族への納得いくまでの十二分な説明です。それを支える医療メディエーターの普及も不可欠です。


著者紹介
鈴木寛(通称すずかん)
現場からの医療改革推進協議会事務総長、

中央大学公共政策研究科客員教授、参議院議員
1964年生まれ。慶應義塾大学SFC環境情報学部助教授などを経て、現職。
教育や医療など社会サービスに関する公共政策の構築がライフワーク。

2008年10月14日

臨時 vol 145 「第2回「医療における安心・希望確保のための専門医・家庭医のあり方に関する研究」班会議 傍聴記」

2008年10月14日発行

   ~ 患者のため、言ってみたけど、実は自分たちのため ~

                ロハス・メディカル発行人 川口恭


 例の第14回事故調検討会と同じ日に、この班会議も開かれた。日本専門医制評価・認定機構の池田康夫理事長、日本医師会の飯沼雅朗常任理事の2人からヒアリング。事故調に時間を取られた分、少し報告が遅くなってしまったが、こちらの会議は参加者たちが端的に喋るので色々なことが見えてきて面白い。ここでは、まさに真剣勝負という感じの質疑応答をご紹介する。2人のプレゼンの内容は、追って公開される班のサイトをご覧いただきたい。

最初は池田理事長。

土屋
 「日本の現在は学会中心の専門医育成だが、アメリカはプログラムオリエンテッドという話だった。機構としては、その方向を目指すということか」

池田
 「学会に投げかけたい。長い間専門医制度は学会がつくってきているし、これからも学会がつくっていかなければならないであろう。学会に、専門医が何人必要か、プログラムオリエンテッドの育成制度に対して専門性の指針を整備していただく必要があるのではないかということ、その辺で意向を各学会にお聴きしたいと思っている」

土屋
 「理事長としては、プログラムの方向、しかし各学会全部の合意を得られていないと」

池田
 「その通り。長い歴史があるので一朝一夕に変えることができない学会もあると思う。ただし、今後専門医にインセンティブを付けるとなったとき、患者さん側から要望がでてくると思う」

土屋
 「適切な専門医数、これをどこが決めるか、これを最終的には機構で決める方向性なのか、各学会の決めた数を容認する方向なのか」

池田
 「適正な数を出すことは大事だが難しい問題。何が適正か言いづらい。各学会はどういう試算のもとに適正な数を考えているかを問い合わせた結果としてそういう議論を巻き起こしたい。日本の医療で専門医の果たす役割を考えたとき、診療科の偏在や地域医療の問題を解決するひとつの策になっていくのかなと思う。プログラムも各都道府県に置くことになれば、当然そこで専門医が育っていく。地域格差の解消にも一石を投じる格好になっていくのではないか」

土屋
 「各学会の総会うんぬんというお話だった。一方で、第2版の整備指針3ページに基本的に参加年限は問わないとなっているが、学会が守っていないということか」

池田
 「その通り。会員歴は問わないとなっているが学会では決めている。問わないというのは、問うのが悪いということではなく、トレーニングの経過である程度認定ができれば良いのだろうという考え方」

土屋
 「先生のご挨拶にも、整備指針の最初にも、第三者機関ということばがでてくる。第三者は契約の同意者でない主体となっている。当事者でないという定義があいまいなのが一般的だろうが、それはともかく、第三者というのは1つ、予断無く専門知識を活用して内容が適正かを評価する。これは社会システム研究本部の見解だが、道路公団の民営化が該当して施策や事業内容まで検討する。2つ目のタイプは内容ではなくプロセスを評価する。今までのお話では後者と解釈して、内容に踏み込んで指示を出すまでは持ってないし、今後もそうだということで」

池田
 「その通り。プロの集まりとして学会を基本にしながら、学会だけということでは患者の視点や違った意見が反映されづらいので、専門医審議会をつくり、メディアの方、日本医師会、医学会を含めた審議会で方向の議論をいただいているのが現状」

土屋
 「この審議内容は公開されている?」

池田
 「まだ公表されていない」

阪井
 「機構のミッションとして、専門医のトレーニングの質の向上維持は患者のためであるとコメントされた。その通りと聞いた。機構はアドバイザリーコミティーで外部の意見を聴く、ということだが、理解が正しければ理事のメンバーに外部の人を加える、患者さんを入れるのがよろしいかと考えるが」

池田
 「それは大事な指摘。ここの機構が、学会もそうだと思うが、機構の運営が専門医をつくるにあたり、どういう仕組みで動いているが、transparencyが求められる。機構の運営についての指摘は傾聴に値すると思う。今は入っていない。各学会の定款が決まっていて、各学会から理事会が選ばれて運営されている。その定款を変えないとそういう形にいかない。そのためにも外部の方の意見を吸い上げる形は別にどうしてもつくらねばならない。定款を変えるか議論の必要性がある」

外山
 「今の専門医認定機構が、日本の専門医をつくるにあたって、一番上の委員会と解釈してよろしいか」

池田
 「その通り」

外山
 「全体的なことをやるには、具体性と実効性、それがないと組織がうまくいかない。先に進まないと思う。そういうところで、先生の会の中で下部機構、いわゆる目と足と耳をつかって動くという、そいういう組織は考えているのか」

池田
 「それがないと集まっているだけでは、実際はできない。施設訪問するにしても、具体的なアクションをするにしても、専門的なコントリビューションする人が非常に少ない。評価委員会でも理事の方、班員の方、評価委員会のメンバを募っているが、専門家だけが負担がかかる状況がある。そういう足腰を強くする仕組み作りは今後当然つくっていかねばならない」

外山
 「そのためには、財政的な支援、第三者、色々な別の職種の理解のある方のサポートが必要。アメリカでも莫大なお金がかかっている。先ほど学会はプロフェッショナルの集団だというお話があった。いわゆる学会が運営者の集団なので、学会の意見、各学会でまとめてもらう責任があるのはもっともだと思うが、学会がそれを行うだけの実際の能力、精神力、誠実さ、それがあるのかと思うと、少なくとも私が属す学会については懐疑的。すると学会に振らねばならないというところの基盤が脆弱な気がする。もっと突っ込んだ、学会にこうすべきというようなアプローチは今後されるのか」

池田
 「加盟しているのが69学会、それ以外にも専門医制度をもっている学会がかなりある。そういう学会はルーズに専門医を設定しているかもしれない。69学会も温度差がある。専門医を育成するために多くの事務局を運営している学会も、ゆったりしている学会も温度差があるので、標準化をやらないと専門医という言葉が国民に理解されない形になる。機構は踏み出さざるを得ないし、責任をもたないと中心的な機構にならないと思うので、行政もサポートしてくださると思っているので、それを含めて考えたい」

土屋
 「外山先生は具体的な実効性、とおっしゃったが、機構をバックアップする事務局機能、官僚機能は今どの程度の規模か」

池田
 「まだ事務長以下、数人の規模。日本の学会でいえば、日本内科学会・外科学会は事務局が30~40人規模。事務局機能、人的サポートがないと、医師だけが理事会に出席し、会員も医師だから、それがそれぞれの仕事を持ちながら立ち向かうのは難しい。スタートとしては動きだしたといってもらって良いと思う」

土屋
 「委員会理事会は、その時には良い意見がでるが、実行されない、その繰り返しがつづく。外山先生も私も胸部外科学会に属し、厳しい専門医にしようとすると理事から外されるとか、理事長選挙で落ちるとかの現状がある。中からの改革は難しい。上部組織強化の期待は大きい」

江口
 「整備指針には触れているが、今回お話にならなかった中に指導医がある。今回は専門医のご説明があったが、教育の体制そのものが大事だと思うのだが、指導医が重要になるが、先ほど先生のお話にもあったが、指導医の体制も固める学会もあれば、紙一枚だせば指導医になる学会もある。指導医の中身、資質がどういうことが必要か機構が打ち出したらどうかと思うのだが」

池田
 「指導医の定義認定はあえてしていないが、プログラムオリエンテッドになれば、どこの施設でどういうプログラムか、誰が指導しながらやっているのか、という仕組みになっていく。その施設では誰が教育を担当している、どういう方なのかということになると、自ずと指導者の役割、資格が決まってくるのではないかと思う。今の段階で指導医は色々な学会が色々な定義をしていっるので、あえて定義していない。それが先ではなくどういうプログラムか、どういう施設か、で位置づければ良いというのが私の考え。これは機構の中でまだ十分にディスカッションしていることではないが」

土屋
 「外山先生、アメリカには指導医の分類はある?」

外山
 「ない。専門医だけ」

土屋
 「専門医か、それを取る前のトレーニング段階かどちらかしかないということ?」

外山
 「その通り」

土屋
 「日本の専門医は」

江口
 「施設から言うと、指導医がいないと専門医の施設認定がうけられない。本当は専門医は教育の資質も持っていなければならない。残念ながら今はかなりばらつきがある」

土屋
 「暫定的には指導医が必要。そうしないと、専門医になるために100年勉強しないといけなくなる。しかし、きっちりとした専門医制度ができあがって育てば、二段階でよろしいと。その辺、専認協の認識は」

池田
 「その通りと思う。機構はたくさんやらなければならない仕事がある。1つには、プライマリボードといっている内科、婦人科、外科などほとんど専門医という名前で呼んでいる中で、内科だけが認定医、そのうえにサブスペシャリティが乗っている。これから患者を診るには取らねばならない資格を位置づけると、専門医というかその領域の医師、そのうえに立って本当のサブスペを選ぶ方向にもっていくのではないか、と個人的には思っている」

岡井
 「専認協として、これまで専門医制度の体制固めの動きはあったが、所属している学会から見ると著しい前進があったとは思えない、そういう認識があると思う。この機構は公益法人だが、社員は各学会で、お金を各学会が出している。この立場では、学会の意向で活動することになる。そうすると専門医制度を、どう定着させるかということになって、厚労省と交渉するのがメインになる。機構の意思は社員の意思できまるので学会の言うことをきかざるをえない。

 機構は患者のため国民のためと言う、ところが社員である学会代表は学会会員の利益を考える立場にいて、自分達の学会を主張する。ここに矛盾がある。学会の代表者が集まるのではなく、もうひとつステータスを上げる方向にもっていかないと、学会の意見を聴いても何も進まないことになりかねない。組織をもう一歩上にあげる努力がいるのでは」

池田
 「大切なご意見と認識している。この機構の歴史を申し上げたが、学会が集まり考える。成り立ちはプロの集団の集まりとしてよかったが、はっきり専門医制度はどういう役割かという視点に代わっているので、今は学会だけがつくっている、学会が金をだしている機構で学会の意向を無視して方向性を決めるのは難しいと思っている。第三者中立的というからには経済的、組織としても相応しい組織の在り方を模索せねばならない。現在経済基盤確立の努力をしている」

土屋
 「ご指摘のように専認協は各学会のあつまり。アメリカは学会代表も出ているが、学部長、病院長の代表、医師会代表、同じ医者でも違う職域を網羅している。教育専門家も網羅している。第三者機構という形の綱引きができている。関係者だけでも第三者的な活動ができる。機構は学会代表だけ」

池田
 「ご批判は当然あるので、審議会として日本医師会、医学会、有識者、メディアが入ったものを設けて中立的第三者的立場をある程度反映させたいとつくっている」

外山
 「ラディカルに考えてうまくいくと良いと思うが、ラディカルというのは今の日本の学会のありかたは決してきちっといっているとは思っていない。アメリカと比べても。どの学会でもとはいわないが。学会の体質をどう変えていくかインセンティブが必要。土屋先生もおっしゃったように変えていくことができると思う。アメリカでは理事会に医師だけでなく、アシスタントフィジシャンを入れたり、レジデントも入れたりしている。学会だけの意見で決めないというブレーキがかかる。25名のうち20名が学会関係者だと多数決ならそちらに動くように思うが、しかしそれでもそれなりの公平性・客観性が保たれているように思える。学会の質にある程度切り込まないと基本的問題解決にはならないのでは」

池田
 「学会へのご指摘はある点当たっているが、ある領域の学会では学会の在り方を考えて代わろうとしている学会はかなりある。血液学会は70年の歴史をもった学会と50年の歴史の似たような学会があったが、1つの学会にして、患者からみてわかりやすい学会にしようと変わってきた。70年50年の歴史を一気にかえるのは難しいがそういう動きはみられているので、学会も日本の医療の現状をみて、変わらざるを得ない状況になっていると思う。今までは学問の交流に終始していたが、社会的な医療を中心に考えるということになると社会性、対患者を意識しなければならない。もともと日本の学会は学問的なことをディスカッションするためにできた経緯があるのだが、変わりつつあると思うので、みていきたいと思う。変化のスピードはたしかに学会によって様々。それをどうまとめて良い方向にもっていくか。機構のもつ課題は重要で任務も重いと思うが、その方向に向かって学会、患者さんの意見を吸い上げて一歩一歩と思っている」

外山
 「努力している学会には敬意を表したい、と思うが、外科系の学会で改革をやっていこうという情報はお持ちか」

池田
 「外科系の場合は手術をするスキルを大事にするので、手術を全くしていない人が専門医を名乗るのはおかしいと議論をしながら。手術件数は日本でどれくらいあるのか入れながら数を考えようという学会が出てきていると認識している」

土屋
 「この問題は、やりだすときりがないので一旦終わる。1つ確認したいが、適正数を各学会に聴いてみるというのは、機構としてどのようなタイムスケジュールでどのへんまで目標か」

池田
 「理事会、総務委員会で話をしたのは、各学会に適正な数をどう考えるか、数をあげられるか、数をあげるとすればどういう根拠でだされたのか問い合わせを早速してみたい。それで各学会が適正数を考えているのか、まずまとめをしたいということを思っている」

土屋
 「調整すると、最終的に全体数がわかるのは何年くらいかかりそうか」

池田
 「難しい。プライマリボードは位置づけが難しい。耳鼻科整形外科は標榜科にリンクした考えで良い。それは例えば卒業して患者をみる、医師としてはどこかに属すわけで。実際には。その専門医をとってほしい。そのうえで例えば耳鼻科であれば耳の専門か喉の専門なのか。耳鼻科の専門医はheadアンド neckを皆カバーできる専門医だが、実際患者が喉頭癌になったという場合には難聴の先生よりそちらにかかりたい。整形外科でもしかり、背骨と股関節でわかれる。整形外科を全般的に診られる専門医も必要。専門医という言葉がそれぞれの医師でイメージが違うのが問題だと思うので、専門医を国民的な議論の中で共通の言語としてもてるような議論をしていかねばならない。どれくらいの数をどこまでという答は難しい」

外山
 「タイムスパンとスピードは重要。今、心臓外科が専門医1900人いる。日本は心臓外科の手術件数が5万というところで、専門医が多すぎる。これをまだ増やすつもりだという。いつまで増やすのかといったら、まだ足りないという。このまま増やして3千人となった時に、きちんとした専門医制度ができたとして、既に取ってしまった連中をどうするのかが問題。新らしい制度に合わないからおりろ、となるのか、ある時期20年30年の混乱がある。何のための制度導入かとなる」

池田
 「数の議論のスピードは大事だが、もう一方別の味方をすると、どの地域にもある程度の専門医が必要。集約化をはかり、ある程度の病気は拠点に専門医をおくという考えもあるが、心臓外科以外の専門医には、各都道府県にかなりの数の専門医がいなければその領域の医療の格差が是正されないとなる。その問題も一緒に考えていかねばならないと思う。地域医療の格差も頭におきながらその解決を含めて考えるのが必要だと思っている」

土屋
 「私も外山先生も外科医でせっかちなので、3年目4年目にはこういう姿なんだよと示してほしいと思ってしまう。時間も経過したので、ありがとうございました」

 続いて、飯沼常任理事。

土屋
 「私も現役の頃には、毎月5ヵ所の医師会の勉強会に夜行っていた。色々な疾患について開業医の先生が幅広い知識、専門的な高度の知識もお持ちだと実感をもち、尊敬申し上げている。5枚目のスライド、賛成意見の3番目、長年専門医で大学病院で働いた医師が開業する際の習得というのは圧倒的にこのような方々が多いと思うが、長年地域医療をやってこられた、という方に比べ大学でやっていると他の分野は素人同然ということで緊急性あるが、認定コースで考えられているコース1は総合診療医を若い方をどう育てるかシステム的に問題で大きな課題だが、コース2,3,4は全国的に僻地に行くような方に教育するのに必要という解釈で良いか」

飯沼
 「はい」

土屋
 「葛西先生から意見あるが、中途編入者的な方が他分野の実技をどういう場で研修するか」

飯沼
 「研修のところは非常に大切で、場所的なこともあるが、講義形式のものとEラーニングと、実習見学も考えねばならない。これから模索だと」

土屋
 「山形では長年専門医として大学でやっていた方が開業するときに、特別なコースを大学病院で用意されて送り出すことを嘉山先生がはじめられたとお話されたが、医師会でもそのように協力してというようなことは」

飯沼
 「検討させていただきたい」

土屋
 「行き渡ったとして総数どれくらいか、毎年新規参入者どれくらいか、試算があったら」

飯沼
 「試算はしていないが、本認定制度の対象は全科にわたり内科に限ったものではないと書いてある。なりたい先生には、なれるようそれなりの対応をしたいと考えている」


医師のための制度であって患者のための制度ではないと語るに落ちている。

川越
 「日医がこういう教育に関して熱心だというのはうれしい。感謝したい。今回、後期研修制度をどうするかという話しの中で議論していて、今土屋先生が指摘されたことと関連するが、地域で働く先生方はもともと専門的なバックグラウンドを持ちつつ地域に入っていくのがほとんど。今後は専門家総合診療、かかりつけ医療かよくわからないが、専門性として地域に出て行く医師を育てるべきではないかという意見もある。従来の考えだと前期研修制度がしっかりやっていれば、地域に出られるという乱暴な意見があるが、先生が指摘されたかかりつけ診療は、専門性が高い分野なので、トレーニングの機会を作っていかねばならない。そうなると、後期研修制度は専門医制度なのでトレーニングが特に大事になってくる。地域医療ということになると教育する先生と教育を受ける方が離れてしまう場合がある。教育者は大学病院にいて、実際のトレーニングを受ける場所は地域ということで、日医の先生方が頑張っていただかねばということは現場から離れない意味で大事だが、実際のカリキュラムも一緒につくっていかねばならない」

飯沼
 「先生のおっしゃる通りだが、方策としてはなかなか具体的にまだ出てこないので、これから名案が少しずつでてくると思う。良い案があったらお教えいただきたい」

阪井
 「1つ伺いたいのだが、地域医療、保険福祉を担う幅広い能力という、医師が担う範囲には妊婦に対する診療や出産も入っているか」

飯沼
 「カリキュラムのところで若干あるが、たとえば、性器出血や下腹部痛から早流産の可能性を見極め専門医に紹介、健康問題に対応」

阪井
 「出産は入っていないのか」

飯沼
 「入ってない」

葛西
 「この研究班ができる元になったビジョン具体化検討会で、専門医としての家庭医が必要ということで、専門医の養成を考えているところだ。専門医というからには、国民の求める質レベルが重要で、名前がどうであれ、レベルに達することが大切だと思う。そのうえでカリキュラムを興味深く拝見した。コース1は、我々のつくって進めている3年の後期研修プログラムと同じものかなと思っている。この質のレベルをしっかりしたものにしようと思うが、コース2、3、4は会員の先生には内科が大部分を占めると思うが、臨床経験7年15年の人でも皮膚科や眼科などでスタートの経験知識がバラバラだと思う。その後の50単位、20単位の教育でレベルは揃うのか」

飯沼
 「大切なところだが、実際は細かいところはこれから議論しようというところ。大枠こういう案はどうかということでお示ししたが、まだ機関決定もされていない。こうなるかなというところ。先生がおっしゃったのは非常に大切なところなのだが、詰めるところが詰まっていないのが現状。まだ日本医師会は機関決定していない。色々なファクターを説明しているだけで、コースに対しては全員50単位にしろという意見もある。ある年齢で論文というか報告書1通くらいで良いのではという先生も色々いる。最後は激論をかわすことになるが、意見を参考にしたい」

葛西
 「良いきっかけになると思うので、手をあげていただいて国民のための総合医になりたいという人が入りしっかりした制度をつくれば、良い制度になる。資料見せていただいたが、福井先生がとりまとめ家庭医学会でもいくつか資料をだした。色々なことが入っているが、急性期の問題が57とか、これをどう選ばれたのか、諸外国の標準的なテキストをみると、家庭医の問題は150くらいなので、どう選ばれたのかききたい。やるべきことを項目としてリストアップされているが、カリキュラムとして誰がいつどうやって教えるのかはまだまだだと思うので。項目だけ羅列ではなく項目も盛り込んだものが良いと思うし、私も学会も協力して一緒につくれればよいかと思う」

飯沼
 「100いくつか57に減った理由は、福井先生と三学会で議論する会には全部出ているが、どこかに必ず入りこむようにはされていると思う。あとは先生のおっしゃる通り。これを現実の教育にするかは2年くらいかかると思うがやっていきたいと思う。試行錯誤もこれから」

渡辺
 「葛西先生の質問とかぶるが、このカリキュラムの中で女性医療が抜けている、月経前症候群や更年期障害は精神科にいってしまったり産婦人科にいったり頭痛で神経内科にいったりするので入れてほしい。コモンディスイーズについては、漢方がかなりカバーするので入れてほしい。教育カリキュラムは、幅広いものをカバーするとなると、総合医なり家庭医というものがすべて教育を担うのか、サ
ブスペシャリティの専門医が担うのか、どうお考えか。飯沼でも葛西先生でも」

土屋
 「じゃ、葛西先生」

葛西
 「日本より20年、30年進んでいる国でも、各科の先生の協力を得ながら、プログラムをつくっている。家庭医指導医が教育にかかわれるが、病院の中で科の進んだ診療の経験は病院の中でやっている。各科の連携が必要」

土屋
 「アメリカのファミリーメディスンを想定しているのか」

葛西
 「そう。アメリカに限らず、世界で行われているファミリーメディスン。それぞれの国や地域の実状にあわせてやっている」

飯沼
 「専門の先生のご指導を受けながら、先輩の総合医が後輩を育てるシステムだと思う」

岡井先生
 「日本医師会が考えている総合診療医は、厚労省が考えている総合科医と根本的には違わないと思う。それなのに、医師会が反発しているのは、その人達が、日本人の受診行動が外国に比べ統制されていない。あくまで医療を提供する側の人間をどう効率的に使うか考えたときに効率が悪い。ファーストステップは総合科医がみる。高度な診療が必要なときには専門医、という考えは厚労省にあると考える。そういう使われ方に反対されていると思う。日本医師会は。どうして反対なのか聴きたい」

飯沼
 「フリーアクセスの制限がある。こういうものに保険点数のインセンティブを与えないのが基本なので、それが2つ。ゲートキーパーが即フリーアクセス制限にならないと言われるかもしれないが」

岡井
 「患者の選択として総合医へ、という患者の自由選択を残せばフリーアクセスの制限にならないが」

飯沼
 「が、僕らはゲートキーパー的なものになると、どうしても思ってしまう」

岡井
 「標榜科はどうなるのか」

飯沼
 「標榜どうするか、これから、考慮中。ノーとは言ってない」

土屋
 「がん専門病院として、うちは完全予約制にしてしまった。本省ともナショナルセンターとして法律に触れないか患者権利の制限にならないか相談して詰めた。我々がフリーアクセスにすると、風邪でもかかって外来があふれて大変。紹介してもらって先生が必要と言うならかかってもらう、そうしないと。総合診療医がゲートキーパーという言葉は、大熊さんに怒られてしまうが、そういうインセンティブがついたほうが我々はありがたい、むしろ患者も増えるのではないかと思うが」

飯沼
 「医師会がどう考えているか議論したことないので個人的な話だが、がんセンターのように特化した専門医の先生がそう考えていると開業医には伝えるが、ゲートキーパーになった方が患者が増えるという考えにはついていけない」

土屋
 「うちの受診が減れば行くところは診療所しかないので、中央区医師会には反対がなかったが」

飯沼
 「それは良いと思う。がんに特化した病院は、機能分担しなければならない」

土屋
 「大学病院でも専門性の高い集団なので同じでは。診療の最初の段階では先生方に担ってもらったほうが良いと思う」

飯沼
 「それは病診の機能分担の話で、今回の話とはちょっと違わないか」

阪井
 「岡井先生のお話が本質で、フリーアクセスが大事というのは患者が言うことであって医師側が言うことでない。救急で具合が悪くなったのに、それこそなかなか診てもらえなくなって亡くなった方のご遺族と話をしたことがあるが、たとえ100キロ先であっても絶対診てくれるという方が絶対によい、誰でもどこへでもかかれるなんてとんでもないという話だった。患者がどう考えるかで、医者がフリーアクセスの方が良いと言うのはおかしい」

飯沼
 「患者がどう思うかが一番大事。医師会が、制限するのはおかしいといっているのは、我々は患者の立場で言っている」

阪井
 「私は、患者がそう言っていると言っている」

飯沼
 「先生がおっしゃってるのは、小児科やがんの極専門的なもので、我々が言っているのはごく一般的な病院の話だ」

 阪井先生の頭から湯気が出ているのが見えたような気がした。すかさず班長が割って入る。

土屋
 「医者同士がやってるので傍聴の方、我こそは患者の立場だとご発言いただける方がいらしたら。おられなければ、では川越先生」

川越
 「我々は後期研修制度に関する班で、専門医を育てる制度をディスカッションしている。地域医療は専門性が高い。介護保険の知識も持たねばならないので専門性が高まった領域だと思う。後期高齢者医療制度の中に地域医療をどう位置づけるか、まだまだディスカッションしていただきたいと思うのが一つ。もう一つは、産科、妊婦さんの検診が後期研修でどう考えるのかもある。後期研修制度は、こないだ安心と希望のビジョン会議でディスカッションされたのは、前期研修制度そのものは見直さねばならないということがある。研修期間と学部との連続。前期にもってくるのが適切かどうかという研修の場にも議論があったが、その中でも産婦人科、1カ月義務づけられているが、それで良いのかディスカッションがあった。前置き長くなったが、私は前期研修の見直しがなされているので情報交換をしっかりもたねばならないということと、個人的な意見だが、妊婦の診察は内診ができなければできないので、後期にもってくる内容であろうと。専門性をもった分野だと思う」

土屋
 「時間が来たので、発言されてない山田先生と有賀先生、一言ずつ」考えてみると直言居士の有賀先生が何も言ってない。

有賀
 「興味深く拝聴した。先生先ほど認定制度の対象は全科に渡るとのことだった。私は、現職の前は地域医師会の学術担当理事をやっていて、医師会についてもある程度知っている。できるだけ多くの医師会員と言うけれど、これから開業の人と話をすると、こういう認定制度に興味を示す。しかし、既に長年やっている方はどうか。一定の勉強の後地域で開業され、福祉地域保健にどっぷりつかる。この制度にむりやり乗らなくても、診ている患者は良いあんばいに診れていると強く思う。なんとなく日本医師会の思考として、すべての開業医について等しくというのがあるのかもしれないが、既にやっておられる方については問題にしなくても、十二分に医師会の先生は生活していける。日本医師会にこれから入ってくる新しい方にどんどんやられる感じで、あまり今の人たちを対象にするより、後期研修における専門というようなドラスティックにどんどんやるほうが良い。今できている人は良い、という議論はあるか」

飯沼
 「ある。コース4を含めて、やってる人はいい、という意見はある。逆に全員やれ、という意見もある。色々な意見もあるので最終的に討議する」

山田
 「この会は後期臨床研修の制度設計的な問題を構築できるか検討しようと。一応大学を卒業した医師の開始時点として初期臨床研修2年終えて、その人達をどうキャリア形成、パスに分布配置させれば一番良い医療体制に向けて進めるか検討するのが基本的な視点だが、それと現実問題としてかかわる二方の立場を理解できる形で聴けた。個別的質問として現実的成果で、生涯教育推進委員会が平成18年19年で諮問をうけた。継続的に長年の生涯教育の有効性検証、そういう実績成果の検証効果の検証をに次に新らしいものを計画する重要なデータ、基盤になると思うので簡単に教えていただければ」

飯沼
 「簡単にもうしあげると、20年間続けた生涯教育制度は、一時申告率が減って大変だというので、自主申告制にした。1時間でも50時間でもどちらでも申告しなさい、と。このために評価に客観性がないというのが共通の指摘だった。やる以上は、会員100%に勉強していただきたいというのと、勉強を客観的に評価できる内容にすべきだ、それが全ての始まりで、それなら認定性が良いとなった」

 明らかに出発点がおかしい。しかも、おかしいという自覚がない。

山田
 「お聴きする機会がないので、日本医師会の立場として、今検討している後期研修、専門医研修、臨床研修に対して、全般的なご意見があれば聴かせていただきたい」

飯沼
 「いわゆる後期研修について、日医でディスカッションしたことはない。前期の研修制度については問題点があるという事は存じ上げていて公式の会議、厚労省の会議にも出ている。文科厚労の合同会議にも出ていて正しく伝えると思うが、後期は難しい問題でまだ。医学教育、医師免許、前期研修が決まらないのに後期の話はまだ尚早」

土屋
 「コース1と、2から4で言うと、おそらく2から4の方が緊急性が高いだろう。この部屋でビジョン具体化検討会の最後の会をやった時に、医師増員1.5倍は10年かかる、もっと緊急性の高い話にしてくれと厚労省から言われ、高久先生が乗りかかって危うく増員が消えそうになった。コース1は医師会と協力して行きたい。2から4も大事な問題だが、これが大事だから1は後まわしと厚労省に言われないよう準備しないといけない」

(この傍聴記はロハス・メディカルブログhttp://lohasmedical.jp にも掲載されています)

2008年10月11日

臨時 vol 144 「第14回診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方検討会傍聴記」

2008年10月11日発行

  ~ 世の中は動いても、ここでは時間が止まっている ~

                 ロハス・メディカル発行人 川口恭


 なぜ、この検討会を今開かなければならないのか、もともと意味が分からなかった。傍聴してみて、ますます、その感を強くした。

 先に概要だけ述べておくと、パブコメの内容がある程度集約され、それへの厚労省の見解が説明された。

 で、今後は法案大綱に反対している人たちを呼んでヒアリングするという結論になったのだけれど、法案大綱ができているということは自民党とは話がついているのであり、もう政治のステージに移った話のはずだ。自民党が戻したのでない限り、検討会で何を議論しようが法案には反映されない。(民主党が選挙で勝てば、ご破算で最初からやり直し)ヒアリングとは言うものの、反対派の意見も聞いたというアリバイづくりにしかならない。そんなの真面目に採り上げて論評する価値があるもんだろうか。こっちだってクソ忙しいのに。

 百歩譲って、中身が面白かったならまだしも、これがつまらん。今年度になってから、ビジョン会議系の「自分たちでやるぜ」という建設的な検討会の傍聴が多かったので、久々に旧来型の「事務局の筋書き通りに言ってみるだけ、あとは事務局よろしく」という進行を見て、その余りの眠たさにどんよりした気分になった。

 そうは言っても、溜めといても気持ち悪いだけなので、さらっとご報告する(敬称略)。

 ちなみに看護協会選出の委員が交代、でも欠席。他に、鮎澤、加藤、堺、辻本の4人が欠席、南が遅刻。そりゃそうだよね、これだけ意味のない会議だったら皆さん出たくないよね。

前田座長
 「パブコメの主な意見とそれに対する厚生労働省の現時点での考え方を事務局に準備してもらった。それを踏まえて、今後この会議をどう進めるか、議論したい。まずはご説明を」

 ということで
 佐原医療安全推進室長が30分ほど説明。

前田
 「何かご質問ご意見があれば」

 誰も何も言わず。

前田
 「気づいたことなら何でも結構」

高本
 「今後は行政処分が大きな意味を持ってくる。ここには医道審の意見を聴いたうえで厚生労働省が処分をくだすと書いてあるが、曖昧だ。再教育中心のものにしないと、調査委員会の方も十分にファンクションしない、委員会の機能が半減する。今の医道審では、お話にならない。しっかり見直してほしい」

杉野医事課長
 「ご指摘の点は重要。現状は、刑事上の処分を受け、その内容を勘案しながら参考にしながら処分しているという実態。医療安全調査委員会ができた後は行政処分のルートや中身が大きく変わるのは当然。新しい委員会の仕組み・流れを前提に大幅に見直す必要があると考えている。具体的にはまだイメージできていないが、しかるべき時期にしかるべき方向でと考えている」

 ここから先、時間が過去に戻ってしまったかと思うほど新味のない意見が続く。世の中は激動しているのに、この検討会だけは時間の流れが違う。

山口
 「医療者の多くの関心は、委員会への届け出が捜査当局へつながるのでないかということ。届け出範囲にはガイドライン案がある。通知される標準的医療からの逸脱というのがどの程度のことを指すのか、専門家の中でも意見が違うし、状況によっても違うだろう。ほとんどの医療者は一生懸命まじめにやっているのであって、刑事責任を問われなければいかんものはわずかだと思う。しかし、それが例えば地域によって基準が違うのでは具合が悪い。通知の基準づくりはどうか」

佐原
 「届け出後も学術専門団体の落ちからをお借りするので、出口の判断も役所だけでは決められない。アドバイスをいただければ」

前田
 「今でも刑事で扱われている数少ない例でも、鑑定までいくかは別にして医師の判断を参考にしている。入口とは違って、委員会に法の人間が入るとは言っても、基本は医療の側の判断だ」

木下
 「医療界の方々に説明に歩いていると、『重大な過失』の意味が曖昧でよく分からないと言われるのだが、司法界の先生方にお話を伺うと故意に準じるくらいの重大なものということでハッキリと定義されているという。大綱案になって、標準的な医療からの逸脱という表現になったのだけれど、かえって何をもって逸脱というのか、で、また大騒ぎになっている。司法界で重大な過失というのが当たり前の表現ならば、著しく逸脱と表現するのが果たしていいのか、むしろ重大な過失と表現した方が意味が狭まると説明すると分かってもらえる面もある。表現についても、もう一回検討してもらえれば」

前田
 「大綱案になって表現が変わった理由は?」

佐原
 「重大な過失の重大とは、標準からの逸脱の程度が著しいということで、第三次試案も大綱案もほぼ同じ意味。また、この判断は法的なものではなく、医学的なものということで、重大な過失とすると法的なものになるけれど、あくまでも医学で考えるなら標準からの逸脱であろうということで表現を変えた。どうしたらよいか色々なご意見を伺いながら検討したい」

木下
 「もちろん経過は承知している。しかし、標準からの逸脱といった場合に、司法界の人たちからすると新しい概念になってしまって、必ずしも重大な過失とイコールになるのか。故意に準ずるようなヒドイ過失なんだと言っても、またその際に両方のサイドで混乱するのでないか。むしろ刑法の中で使われていた言葉を使った方がよいのでないか。ぜひ、もう一度検討していただきたい」

前田
 「この点はそんなに差はない。範囲を動かすために言葉を換えたわけではなく、大野病院の胎盤剥離が標準的医療を逸脱したかというようなことで、重大かどうかというのは程度の問題なので標準からの距離になる」

法務省
 「重大な過失も標準からの逸脱も射程という意味では大きな違いはないと思う。しかしながら、もし法文の中に重大な過失と書くと、法律家の側は混乱するかもしれない。重大な過失というのには、判例によって積み重ねがある。だから行為に対してその積み重ねを当てはめて、重大な過失に相当するだろうと裁判所の判断を前どりする形で立件し、裁判所の判断を仰ぐということになるなら、それで構わないが、そうではなく現場の判断に資する使い易さの点では、そちらの表現の方がよいのでないか。伺ってみると、そもそもとんでもない標準からの逸脱もそんあにあるもんではなかろう。重大な過失の方が入口が狭まるということはないと思う」

警察庁
 「言われた通りで、中身もほとんど変わらないが、どちらがふさわしいかと言えば、この書きぶりの方がよろしいのでは」

 かわいそうな位、ケチョンケチョンである。木下委員、半年考えた挙げ句に、こんなことが最重要と思ったのだろうか。

樋口
 「また、まとまらない話で長くなる。たくさんのパブコメに対して、厚生労働省の側でも一つ一つ答えたことに感銘を受けている。これまでも様々なパブコメ募集が行われてきたけれど、ではパブコメを取ったからといって何か方針が変わったことがあったかといえば、そんなことはない。今回これだけ真摯に対応したのは、いいことなんでないか。

 それを前提として、そのうえでなんだが、今回の委員の発言もパブコメの意見も大きく言えばシステムの話。残念ながら医療事故が起きてしまった、その後でどうするか、大きく分けて2つある。1つが過去を向いてお前一体何をしたんだということを追及し制裁を加える責任追及の型。その際に最も頼りになるのは警察や検察の刑事司法。そうやって責任追及することで同じような事故が繰り返されるのを防ぐ抑止効果があるのなら、それもまた未来を向いた話になるのかもしれないが、現実には必ずしもそうではないばかりか、むしろ思わしくないことが起きている。そこで、もう一つ新しい将来型として、責任追及でない形で再発防止につなげる方法を探れないかという話になる。

 将来型には2つの大きな問題があって、まずは今まで非常に刑事司法に寄りかかって甘えて負担をかけていた分をそうではなく自分たちでやるという方向に舵を切ること、これが第一段階。本当に大事なのは第二段階で、ではどんな調査をすればいいか、どんな人たちが関与して、どういう風に調査すれば再発防止につながるか考えること。残念ながら、これに関しては諸外国にも前例がないようなので、日本が先陣を切ってやることであり、なかなか難しいのは事実であるが、しかしそこに挑戦しなければならない。ところが残念ながら、パブコメの意見にしても第二段階まで踏み込んだものはわずかで、ほとんどのものが第一段階に留まっている。

 それは業界の中に、第一段階での疑いが残っているから。残っても仕方ない現状はあるのかもしれないが、しかしそこん所ばかりで議論が行きつ戻りつして、第二段階が忘れられているのは残念だ。責任追及は刑事、行政処分、民事の3種類あり、3つをどういう形で当てはめていくか工夫が求められる。刑事は具体的に限るという話はさんざんこの検討会でもされているし、オブザーバーの警察や法務省からもそのように言っていただいている。ところが文言の形になると曖昧にならざるを得ない。そもそも具体的になりようがないのだとは思うが、そこが疑いを持たれる原因になっている以上、できる限り明確にするよう努力する必要はあると思う。

 そこで法文として書き込むのがどうなのかは分からないが、ちょうどこの8月に大野病院事件の判決が出て、裁判所が一つのルールを示してくれた。著しく標準的医療から逸脱するとは、こういうことだと。確定はしたものの地裁判決であって、ではあるが具体的な事件で基準が示された。これは分かりやすいと思う。

 先ほど法務省から助け船が出されたけれど、医療的判断という以上、法律にこだわるのは本末転倒であると助言をいただいたんだと思う。その通りだと思う。刑事については、ほとんどの医師がやっていること、これをやり続けたら死んでしまうという症例数があるとの高いハードルが示された。このことを例えば、判決を注で出していただけると、責任追及でない別の仕組みでがんばろうという気運が盛り上がるのでないか。

 行政処分についても、個人の責任を追及するのでなくシステムに着目し、もし個人に反省すべき点があるなら再教育に重点を置いて再出発を促すんだと、随分説明があった。しかしこれが大綱案だけ見ると、医療法の中にチームや施設を処分するという新しい行政処分が加わっただけで、個人向けの処分が謙抑的になるんだということは形のうえでは出てきていない。公の場で繰り返し説明をされているから、私はそのことについて厚生労働省を信じないわけじゃないが、行政処分の規定の条文の中にそのことを入れるのかどうなのか。

 いずれにしても現実の方が大事なんであり、どうやったらいい調査がやれるんだろうということに、もっと関心が集まるようにしたい」

 今回の検討会の中で、この発言だけは傾聴に値したと思う。が、発言途中に退席した傍聴者がいた。誰かと思ったら、大野病院事件のご遺族の渡辺さんだった。最近よく東京でお見かけする。それはそれとして、樋口委員の意見に真摯に対応すれば、法案を書き直さざるを得ない。座長が慌てて打ち消しに入る。

前田
 「大野病院は地裁判決なので、あの判断が間違っているということではないけれど、最高裁判決でなければ法律家は判例と呼ばないので、法律家としてはあまり重視できない。一つの判決だけで、厚生労働省の方に書き込んじゃうとまずい」

児玉
 「この検討会は、医と法の交差点として、社会にメッセージを出していくのは大切な役割だ。議事録としてオーラルコンポジションだけで済ましてはいけないのでないか。医療関係者が心配しているのが過失であり重過失であり大野病院事件だ。そう考えて行くと、今目の前に3つの言葉がある。まず第三次試案の中で法務省・警察庁と合意された内容として『重大な過失』という言葉が出てくる。それから前田先生の教科書にも出てくる『重過失』という言葉。最後に大野病院事件判決で出てきた『刑罰を科す基準となり得る医学的準則』。これら3つの言葉をどういう風に説明するかが課題。それぞれの目的から見直して、法律家が分かりやすく解説する必要がある。

 これは解釈論ではなく実務論であり、立法政策として、どういう基準で警察への通知を行うかということ。そして、それを受け止める側の医師が、どう受け止めるかの問題もある。明快に噛み砕いてメッセージを出していく必要がある。この問題に関して、ある医療者の方にお会いしたら、自分たちがこの委員会に反対していると言われるのは心外だ、心配しているだけだ、と言っていた」

 申し訳ないが、かなり簡略化して記した。朗々と長々と述べたけれど、「だから何?」と言いたくなる。委員たちが、自分が何かしなければいけなくなるのを避けるためだろうか、評論家的に煙幕を張ったような漠然とした話し方をするので、どうしても突っ込みを入れたくなる。

前田
 「まさに立法論と政策論とを分けなければならない。教科書なんかに載っているのは解釈論。とはいえ、ほとんど重なっているんだろう。大野病院事件のことに関して言うと、最高裁のもの以外判例とは言わない。しかし、これだけ世の中に注目され評価されているものが影響を与えないわけもない。医療の側に心配があるのだとすれば、これだけのものがあるのだから分かりやすく示していかなければならない。

 とはいえ片一方で医師には重過失だけしか問わないと言ってしまうと法解釈を誤ることになると思う。それ以外の人たちは重過失でなくとも裁かれている。医師だけに特別枠をつくるということになれば、そこには国民の合意形成が必要だ。大方の合意はできているけれど法制度として国民の合意を得るには至っていないだろう。正直、この検討会ではパブコメを非常に丁寧にやっているし、会議の数もたくさんやっている。理解を得るのに努力が足りないのはその通りだが、何が心配なのか、医療界の意見を直接聴きたい。新聞論調などを見ても国民全体は我々を支持してくださっている。しかし医療界は心配だという。そこを黙って従えというのでなく、医療側にも患者側にも納得いただけるよう、ご意見を聴きたい」

 疲れるので、もう突っ込まない。先生の目には世の中がそう見えているのですか、そうですか、と思うだけだ。

山本
 「民事の観点から一言。地方委員会の報告書が民事裁判の証拠として採用されないことにすべきというパブコメに対して、厚生労働省が、利用されれば早期の紛争解決に役立つと回答されている。全く賛成だ。多くの紛争は、そのような形で早期に解決されるであろう。たとえ解決せず裁判になったとしても、現状迅速化、適正化してきてはいるが、なお医療訴訟での裁判所の判断は医療側から見て不備な点が多く、上級審で覆される事例もある。地方委員会が早期に一定の報告書を出すことになれば、たとえ将来裁判になったとしても適正な判断を期待できる。

 またADRの活用を主張するパブコメもだいぶあったが、よかったのでないか。裁判は過去に目を向けた争いであり、ADRは将来へ目を向けたものだ。ただし、同じADRという言葉を使っていても、論じる方によってイメージはかなり違う。コンセンサスを得る必要はないにしても、どのようなADRの形が望ましいか議論・検討する必要がある」

 他愛もない発言のようで、しかし他に発言する人のない所だから、お墨付きになりかねない。こういう文脈の中で唐突に出てきたということ、1人しか発言してないことは記憶に留めておきたい。

豊田
 「私自身は病院の中で医療安全の担当者をしており、部外の人の相談には乗っていないのだが、毎日のように外部の人から相談が来る。病院がきちんと対応できていないために傷ついて病院を信用できないと思ってしまっている。大野病院事件でもご遺族のお話を伺うと、外部の評価というのは一部の情報だけで判断せざるを得ないので、刑事に問うべきかどうなのかは別にして、私たちが見たあの日の状況と違うとかそういうことになってしまう。だから真相解明していただく機関を早くつくってほしい。一部の医師が反対しているようだけれど、その気持ちも分からなくはないが、遺族としては今のままでは分かりあうのが難しいと思う。法で追及しようということでスタートしている遺族はいない。最初の段階で誠実に対応してもらえないことによって病院を信じられなくなっている。まず誠実に対応することに気持ちを集中していただきたい。行政処分についても、個人の責任追及よりも反省を形にするということで再教育するシステムにしてほしい。それなのに最初の段階で反対しているので、その人たちの意見もしっかり聴いて受け止めたうえで考えたい。ぜひご意見を伺いたい」

 まだ20分ぐらい時間が残っていたのだが、座長はミッションを果たしたらしい。まだ南委員が何も話していないのに、収束にかかる。

前田
 「それでは皆さんよろしいか」

と、高本委員が手を上げ
 「WHOのガイドライン案を根拠に、医療安全調が警察に通知するのは反するんでないかという主張が多い。そこで調べてみた。05年にドラフトが出ているのだが、オリジナルではなく、02年のニューイングランドジャーナルに載った論文が元になっていて、さらにそれは02年のナショナル・クオリティ・フォーラムという集まりのナショナル・クオリティ・コンセンサス・リポートということで座長のカイザーさんという人が発表している。つまりWHOのは孫引きである。カイザーさんのオリジナルを読むと、違法なことは司法に通知すると書いてある。全く処罰しないというものではない。医療安全調査委員会も似たようなもので警察へ通知する仕組みがあってもおかしくない」

警察庁
 「2点。委員会ができたならば、その専門的知見を尊重した運用になる。ただし、その委員会は、中立性、公平性、公明性が明らかである必要がある。二つ目、委員会には迅速性が求められる。それが可能になるために事務局も含めた体制構築をお願いしたい」

前田
 「今後の議論の進め方についてご意見を」

樋口
 「座長や豊田委員の言われたように、反対する人たちの肉声を聴く機会もあった方がよいのでないか。医療者であれ患者であれ」

前田
 「ご異存なければ、そのような方向で。事務局にまた負担をお願いすることになるがよろしくお願いする」

 錚々たるメンツを集めて、税金もかけて、でも、やることはアリバイづくり(だって一から作り直す気はないもんね)。本当にどんよりした気分になってしまう。

(この傍聴記はロハス・メディカルブログhttp://lohasmedical.jp にも掲載されています)

2008年10月09日

臨時 vol 143 「福島大野事件判決解説2」

2008年10月9日発行

        ■□ 医療水準論について □■


                   大岩睦美(医療・法律研究者)

1 民事訴訟における注意義務、医療水準論

 過失とは、行為者が客観的な注意義務に違反することをいい、注意義務の内容として結果予見義務、結果回避義務が存するが、民事医療訴訟においては、直截に注意義務違反が存するか否かが争われる。その際、当該医師が負うべき注意義務の基準となるのが、「医療水準」という概念である。

 民事訴訟における医師に課された注意義務の内容として判例は、「いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求される」( 東大梅毒輸血事件(最判昭和36年2月16日,民集15-2-244))とし、昭和50年頃までこの流れが続いた。その後、未熟児網膜症裁判において、「人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、危険防止のための実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが、この注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である」 (未熟児網膜症高山日赤事件(最判昭和57年3月30日判時1039-66))と判示され、注意義務を論ずる上での原則的基準が示されるに至った。

 つまり、医療水準に満たない治療を行うことによって生じた悪しき結果については、医師は予見すべきであり、その治療により生ずる悪しき結果を回避すべき義務があるのであるから、結局、医療水準に満たない治療の結果生じた悪しき結果については、結果予見義務、結果回避義務が満たされることとなるのである。


2 福島大野事件第一審判決

 本判決は、刑事訴訟における医療水準を示し、医師の胎盤剥離中止義務の存否について次のように判示した。「臨床に携わっている医師に医療措置上の行為義務(=注意義務)を負わせ,その義務に反したものには刑罰を科す基準となり得る医学的準則(=医療水準)は,当該科目の臨床に携わる医師が,当該場面に直面した場合に,ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の,一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない。」

 ここで、一般性、通有性が必要とされるのは、「臨床現場で行われている医療措置」と 「一部の医学書に記載されている内容」とに齟齬があるような場合に,(1)臨床に携わる医師において,容易かつ迅速に治療法の選択ができなくなり,医療現場に混乱をもたらすことになるし,(2)刑罰が科せられる基準が不明確となって、明確性の原則が損なわれることになるからである。

 本件において、検察による一般性と通有性についての立証として,一部の医学書やC鑑定に依拠した医学的準則が主張されているが,これが (ア)医師らに広く認識され(一般性)、(イ)その医学的準則に則した臨床例が多く存在する(通有性)、といった点に関する立証がされるには至らなかった。


3 明確性の原則 について

 近代刑法の基本原則である罪刑法定主義(憲法31条)は、あらかじめ明確な条文により犯罪行為を明示することにより、(a)何が犯罪行為であるかを告知して、国民に行動の予測可能性を与え、(b)同時に法執行機関の刑罰権の濫用を防止することを要請している。なぜならば、自己の行為が適法か違法かをあらかじめ判断できなければ、「違法であることを知りながら敢えて違法な行為をした」が故に刑罰が科せられるとする責任主義に反するからである。

 本件では、検察により、一般性、通有性を有さない一部の医学書にのみ記載されているような事項を根拠とした医療水準が主張されたが、裁判所は、そうした基準に依拠するならば、医師が治療時に「いったい何をすれば犯罪になるか」がわからなくなってしまい、医療現場が混乱するばかりでなく、そもそも、そのような不明確な基準で国民を罰することは、明確性の原則、罪刑法定主義という基本原則に反し許されないものであるとして、検察の主張をしりぞけた。


4 まとめ

 本判決により、(1)刑事訴訟においても医療水準論が用いられること 、(2)刑事訴訟における医療水準は当該科目の臨床に携わる医師が,当該場面に直面した場合に,ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の,一般性あるいは通有性を具備したものでなければならないことが明示された。

 一方で、前稿の結果回避義務の認定とも共通する問題ではあるが、医療水準論における本件の基準は、一般的な医療行為に関しての基準を示したに過ぎない。先端医療等、臨床症例が殆どない治療については、常に結果回避義務が認定されてしまう、あるいは常に医療水準に反する治療と認められてしまうこととなりかねないため、本件の基準が適用できないという課題が残る。先端的医療行為における注意義務の内容、その基準となる医療水準概念の適用に関しては、裁判上争われるような事件の発生を待つのではなく、専門的先端的医療に携わる医療者側で議論の上、妥当性ある具体的基準を定立して提言していくことが必要であろう。

2008年10月08日

臨時 vol 142 「福島大野事件判決解説1」

2008年10月8日発行

  ■□ 結果回避義務について  ~医療事故と交通事故の違い~ □■


                   大岩睦美(医療・法律研究者)


1 過失とは

 業務上過失致死傷罪などの過失犯は、過失により結果(人を死傷させること等)を生じさせることにより成立するが、ここに過失とは、行為者が自らに課せられた注意義務に違反することをいう。この注意義務は、具体的内容として、結果の発生を予見すべき義務(結果予見義務)と結果の発生を回避すべき義務(結果回避義務)の二つに分けることができる。


2 結果予見可能性、結果回避可能性

 そして、結果予見義務と結果回避義務があるというためには、それぞれの論理的前提として結果発生の予見可能性及び結果発生の回避可能性を考えるのが一般的である。実務上は、結果予見可能性が存すれば結果予見義務があり、結果回避可能性が存すれば結果回避義務があるとされる。

 すなわち、「過失がある」(注意義務に違反する)と認められるには、(1)結果予見可能性、(2)結果予見義務、(3)結果回避可能性、(4)結果回避義務の各要件が検討されることとなるが、実務上(検察官の立証上)は、(1)が認められれば(2)は当然に認められ (3)が認められれば(4)は当然に認められることとなるため、(1)と(3)が立証されれば足りることとなる。


3 一般的な過失犯の事例

 よそ見運転で人を轢いてしまったという自動車事故の例を考えてみると、

(1)結果予見可能性:よそ見運転をしたら人を轢いてしまうかもしれない
(2)結果予見義務 :「よそ見運転をしたら人を轢いてしまうかもしれない」と予見すべき
(3)結果回避可能性:よそ見運転をしなければ人を轢かなかったかもしれない
(4)結果回避義務 :よそ見運転をしてはいけない

となる。

 自動車事故の例では、わざわざ危険な行為を行うことが必要となる理由はないのであるから、結果の発生を予見し回避することができるのであれば、予め結果を予見しこれを徹底して回避しなければならないのであり、 つまり、予見可能性、回避可能性さえあれば、予見、回避する義務が生じるのは当然のことと言える。


4 医療行為の場合

 では、医療行為においては、

(1)結果予見可能性:手術したら合併症で死んでしまうかもしれない
(2)結果予見義務 :「手術したら合併症で死んでしまうかもしれない」と予見すべき
(3)結果回避可能性:手術しなければ合併症で死ぬことはなかった
(4)結果回避義務 :手術してはいけない???

となることから、(1)~(3)が満たされるからといって、当然に(4)の結
果回避義務までも当然に認められてしまうと、危険を伴う医療行為を医師は一切
行えないこととなり、不合理となる。


5 福島県立大野病院事件一審判決

 この判決で裁判所は、医師に結果予見可能性、結果回避可能性を認めながら、結果回避義務を否定するという画期的判断を下した。

 判決は、「医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上,患者の生命や身体に対する危険性があることは自明であるし,そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難である。したがって,医療行為を中止する義務(=結果回避義務)があるとするためには,検察官において,当該医療行為に危険があるというだけでなく,

(a)当該医療行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにした上で,
(b)より適切な方法が他にあること

を立証しなければならない。」としている。

 本件では,(a)子宮が収縮しない蓋然性の高さ、子宮が収縮しても出血が止まらない蓋然性の高さ、その場合に予想される出血量,及び(b)容易になし得る他の止血行為の有無やその有効性を、検察官が明らかにして立証しなければ、医師には医療行為を中止する義務(結果回避義務)は認められないとされたのである。

 そして、これらを立証するためには,少なくとも,(ア)相当数の根拠となる臨床症例, あるいは (イ)対比すべき類似性のある臨床症例 の提示が必要不可欠であるといえる。


6 まとめ

 本判決により、医療行為によって患者の生命・身体に対する危険性があることは医療行為の性質上自明のことであり、したがって、医療行為においては、結果予見可能性、結果回避可能性があったとしても、それだけで、直ちに結果回避義務があるとは認められないこととなった。結果回避義務(治療中止義務)があるとするためには、(a)治療を続行した場合の具体的な危険性 (b)より適切な他の方法があること が要件となる。

 しかし、結果回避義務が発生するための要件として、(a)(b)で必要十分といえるか、(a)(b)の立証のために必要な事項は何かについては、法曹界、医療界を交えての議論を重ね、具体的内容の検討が必要となるであろう。

2008年10月07日

臨時 vol 141 「精神科現場からの提言」

2008年10月7日発行

 医療安全調査委員会法案が非急性期医療(慢性期医療、精神科医療、終末期医
療、在宅医療など)に与える影響(精神科現場からの提言)

この提言は医療安全調査委員会法案の施行後の近未来像を予想したとき、
日本社会が崩壊し、暴動さえ起こりかねないと危惧するゆえに提示するものである。

              細木ユニティ病院 精神科部長
              吉岡 隆興


<一言で言えば急性期医療を精緻化し、敷衍化すれば慢性期医療が崩壊するということ>

 今回の医療安全調査委員会問題は医師法第21条問題と度重なる医療問題、なかんずく福島県立大野病院事件の出現に対して、日本医師会と厚生労働省の思惑に一致がみられ進められたものであることは周知の事実であろう。ここで日本医師会としても何とか医師の訴追を免れようと、また専門的判断を優先できるようにとの意気込みにて努力をしたことは明白である。担当者の方の努力は大いに多とするところである。

 ただ如何せん、ことは厚生労働省の権能を超えたものであり、また司法における強固な現実指向性に翻弄され、その実施大綱案は、日本社会にとって破滅的なものとなっている。

 司法においては、現実性、精緻性、統一性が根本原理であるのに対して、医療界は、創造性、不確実性、独立性の中で発展してきたものであり、また日本医師会が職能集団と言うより、平たく言えば生活集団であることを考えれば司法界に対抗するすべはなかったのも無理はない。しかし厳しく言えば、救急医療や医療の最下流を支える現場(慢性期医療、精神科医療、終末期医療、在宅医療など)を全く判っていないことが致命的であった。この法案が通過すれば、日本の慢性期医療、終末期医療、在宅医療、精神科医療は壊滅する。

 そしてその結果、急性期医療も崩壊する。最下流の支えが崩れたとき、すべての医療が崩壊し、社会が崩壊する。老人介護のための激増する自己負担金、家族労働負担は絶望的レベルとなり、入院を政府に強訴するか、暴動が起こる可能性が高い。政府は倒れる。

 ところが日本全国の医師がこの法律の社会的影響が見えていない。医師会も全く理解していない。また厚生労働省、国会議員も然りである。


 以下のことが現実問題となる

 社会システムから見て

(1)統一的終末期医療の強制(全員胃瘻と人工呼吸器の強制)
(2)高齢者はすべて総合病院へ入院せざるを得ない
(3)満床で壮年期が治療を受けることが出来なくなる
(4)在宅医療の崩壊。ホスピスの廃止
(5)膨大な数の日本国民の中堅層(壮年期)の生産現場からの離脱
(6)老人の介護のため生活破綻、家族の崩壊 出産数の減少
(7)爆発的な高齢者医療費の増大(数兆円の規模で増大)
(8)多量の高齢認知症患者の地域での放置、虐待、殺人
(9) 慢性期の患者を担う医師の訴追(数万件)
(10)精神科医療の崩壊、単科病院の崩壊
(11)介護保険制度の崩壊
(12)医師は慢性期医療から撤退する。
(13) その人なりの死に方や尊厳死などの概念さえ日本から消滅する


医療界から見て

(1)慢性期医療の医師が数十の届出件数を抱え、常に警察通報と損害賠償の提訴に怯えながら生活することになる。
(2)すべての医師がいとも簡単に民事訴訟を起こされる(弁護士に一言依頼すれば2千万円ぐらいは容易に手に入る。その誘惑には誰も勝てない。)
(3)老齢期の患者の診療においては、家族とのインフォームドコンセントは何の役にも立たなくなる
(4)標準的医療としてすべての終末期に胃瘻と人工呼吸器使用をしないと安心できない。
(5)自殺患者を生前一度でも診ていれば責任を追及されるようになる(10年連続3万人を超す自殺者の50%が自殺する一ヶ月以内に内科などを受診している。)
(6)在宅医療は警察通報と民事訴訟の宝庫となる
(7)「かかりつけ医の意見書」を書いたり、ケアマネの指導した場合、患者の死亡時は責任を取らされる
(8)日本医師会の主力である開業医が最も危険である
(9)日本の医師は激増する弁護士の生活費を稼ぐ存在となる

 決定的に問題なのは、委員会の発表する過失、改善策なるものを含む調査報告書は、裁判において鑑定文の代わりになるということである。だからこの調査報告書を用いて警察が刑事裁判を起こせば勝訴し、遺族の誰かが民事裁判を起こせばほとんどの場合これも勝訴するということである。遺族は労せず数千万円を手に出来ることになる。この誘惑には誰も抗することは出来ない。

 ある患者の死亡の過程において、過失も、改善するべきことも全くないと言うことはありえない。調査報告書の原型となるといわれる「診療行為に関連した死亡の調査分析モデル事業」の精緻さ、誠実さは大変なもので、たとえ100歳の患者であろうと助けることが出来たはずだとの熱意に満ちて分析している。

 司法においては、ある医療行為が誠実に行われても(現場的最善)、不満足な結果となった時、他によりよい方法(論理的最善)があったと判断されるときは、その医療行為には過失があったとみなすというのが原則である。(論理的最善-現場的最善=過失)

 大野病院事件においても裁判官は、担当医の医療行為は、「過失ではあるが現状では一般的に行われる術式であったので、その過失は処罰するほどではない」ということで無罪にしているだけである。誠実に懸命に現場的最善を果たしたから無罪になったわけではない。私はこの突きつけられた現実の重みに震撼とさせられた。日本の慢性期医療、在宅医療、精神科医療、特に認知症患者の治療過程は果たして大丈夫なのか。否むしろ絶望的だと。

 当然司法関係者に悪意があるわけではない、むしろ職分に忠実に行動して業務上過失致死傷罪の適用をしているだけである。(因みに司法関係者は法律が変わればその法律に基づく行動を取ると明言している。)

 以前であれば、提訴にしようと思えば、弁護士の選択、依頼、カルテの保全そして何よりも鑑定してくれる専門医を探す手間が要ったわけである。そして医師の過失を立証する必要があったわけである。しかしこの法律ができれば、それに関する労力は、ほとんどないに等しい。依頼された弁護士もまた定型文の訴状に、原告の住所、氏名を記入するだけである。私が弁護士ならすべての臨床死に関し民事訴訟を起こし勝てる自信がある。


 日本医師会や厚生労働省にこの民事訴訟を止める手立ては絶対にない。

 日本医師会、厚生労働省は、患者の死亡に関して、以下の如く主張するかもしれないが、ほとんど意味をなさない。

(1)「警察通報するべきかの判定において、その「治療過程の特殊状況とその死」を勘案する。」

 しかし、この委員会には司法関係者、医療利用関係者も含まれる。問題視されるのは「死の直前の在り様だけでなく、その中・長期の治療過程も当然問題視されるわけであるから、中・長期における拙劣な、非専門的な医療を「法の下での平等」を絶対的規範とする司法が認めることができるはずがなく、また最大限の治療努力をしていないことを許す医療利用関係者はいない。転医義務違反や予見可能性と回避義務違反などにて簡単に反論できる。委員会での議論は専門医の意見などほとんど意味をなさないと思われる。(たとえば腎不全の認知症の患者が、時に不穏状態になるという理由で、腎透析を受けられずに死亡した場合、司法関係者の「付き添いを増やせばいいことで、ただの努力不足」、医療利用関係委員の「人権無視」の追求に医師側が何を持って反論できるだろうか。多くの裁判例を見ても、医療に対する判断は定性的であり、定量的ではない。(如何にしたかが問題で、時間や人数が足りないなどの経営的な、量的なことは基本的に勘案しない)

(2)「警察は専門家の専門的判断を優先し謙抑的に行動するはず。」

 しかし、これは単なる医療界の希望である。司法界の重鎮も「検察がこんな斟酌をするはずがない」と言う。日本の司法が法律を緩めるなどと言うことほとんどありえないことで、だから曲がりなりにも信用できるわけである。また第三次試案にはそれらしき文章(「本試案の内容は、厚生労働省、法務省、および警察庁の間で合意したものである。」)があるが大綱案には全くない。後日主張しても「当時の担当者の発言」でおわりである。

(3)「疾病自体の経過としての死亡であることが明らかとなった事例等については調査は継続しない。」

 しかし、救急医療や慢性期医療、精神科医療、終末期医療、在宅医療などにおいては「疾病自体の経過としての死亡」と明らかにすることが出来ない症例がほとんどではないか。特に私の担当している高齢、認知症患者などはほとんどが多臓器不全の死亡である。

 ここでなぜ、医療界、医学会においても賛成派が存在するかであるが、第3次試案に対するパブコメで日本外科学会、日本心臓外科学会などが賛成している。そのほか修正、反対、などの立場を俯瞰すると、単一臓器、あるいは単一系統の疾患領域の学会が賛成している様である。特に外科などは時間的余裕もあり、また自己完結しやすいからであろう。また医療問題が起こった時、素人的な判断でなく専門家的な判断をしてもらえれば、解決すると自信があるからであろう。反対に救急医療も含め、多系統になるほど修正、反対になるようである。

 最も多系統の疾患を扱う、慢性期医療、精神科医療、終末期医療、在宅医療などの分野は明確には反対を表明できていない。専門的判定機構は必要であるとの概念までで思考が停止しているようである。たぶん各論的問題が噴出したとき、右往左往するのであろう。重ねて述べるが、誠実に医療行為をなしても、司法が判定するときは誠実と言う概念は何の意味も持たない。彼らもまた誠実に法の適用をするだけである。

 業務上過失致死傷罪を多臓器不全を扱う慢性期医療、精神科医療、終末期医療、在宅医療などの医療行為に被せたとき、実際の一線で行われている医療行為に関し、医療界は、現場的最善を主張できても論理的最善は主張できるはずはない。

 日本外科学会、日本心臓外科学会の方々も次の論をご理解いただきたい。

 究極の精神科各論的な問題において、例えば心筋梗塞の患者が、死にたいと言っているといって紹介されたとき、今までは恐る恐る入院させていたが、この法律が出来れば、専門医がいないということで断るしかないということである。外科や循環器内科から見れば、なぜと言うかもしれないが、現今の循環器内科の精緻さを見れば精神科医のレベルでは全く対応できない。死亡すれば当然届出が必要になり、過失だらけであるという調査報告書が出ることになる。警察通報と民事提訴は確実である。下卑た表現が許されるなら、精神科の内科的レベルは人様に見せられるレベルではないということである。

 また手術の必要があるが、死にたいといって徘徊している場合、あるいは病識がなく興奮して点滴も不可能な患者の場合、外科単独で診ても、精神科単独で診ても、どちらにとっても恐怖である。しかもそれが高齢認知症の患者であればなおさらである。しかし精神科と外科と閉鎖病棟がある総合病院は実は日本には数えるほどしかない。(私の県で完全に機能しているのは、わずか2ベッドである。)法律が出来ればやはり、入院は警察通報と民事提訴されるのを覚悟で受けなければならない。

 今後は各学会がその賛否を決めるとき社会的影響、将来の状況まで想定した上で決定すべきである。各学会が連携、合議することが必須であろう。医師法第21条における法医学会の見解問題もまた然りである。もちろん学問的精緻さ、向上を目指したわけであることは間違いないが。

 ここまではやや総論的に述べたが、以下は近未来の予想を各論的に述べる。


 専門的医療を受けずに死亡する患者にかんして
 (以下は時系列的に記述している)
 (精神科、療養型病床、特別養護老人ホーム、自宅での看取り、ホスピス)

精神科の高齢認知症患者

(1)多臓器の機能低下状態
(2)脳梗塞、心不全、腎不全、糖尿病ほか
(3)脱水、不眠、徘徊、不穏
(4)精神科入院
(5)入院患者48名に精神科医一名
(6)専門医はおろか内科医もいない
(7)容易に症状悪化
(8)内科病棟入院が必要な状態となる
(9)徘徊、無断離院、不穏、点滴自己抜去にて転院拒否される
(10)救急病院も高齢認知症患者は拒否的
(11)家族と相談し、専門的医療を受けずに経過(転医義務違反)
(12)専門的治療は出来ずに症状悪化
(13)多臓器不全に近い状態で原因不明死
(14)医療事故的死亡(医師法第21条の異状死)に近い状態での死亡
(15)医療安全調査委員会の届け出るべき事例(1)に該当
(16)厳密には届出範囲(1)に該当
(17)医療安全調査委員会へ届け出不要事例でも医師法第21条に関しては届出必要
(18)管理者が届け出なくてもよいと判断しても主治医には義務あり
(19)地方委員会で調査
(20)医学的評価をする。内科の専門医が過失の存在や改善策を提案
(21)司法関係、医療利用側関係者が精神科の特に内科的医療の低さを指摘
(22)医療関係者が司法関係、医療利用側関係者を説得できず
(23)重大な過失(標準的な医療行為から著しく逸脱した医療)と認定し公表
(24)警察に通報される
(25)公表された委員会の報告書(改善点があれば根拠となる)により逮捕
(26)裁判にて不作為型医療事故と転医義務違反、予見可能性と回避可能性論、注意義務違反論、業務上過失論、契約不履行論など、どの根拠でも簡単に有罪
(27)さらに殺人罪における(構成要件的故意)A:このような治療では死期を早めることになることを承知して実行していること。B(因果関係):その実行と患者の死に因果関係があること。の二つを満たす
(28)最悪の場合、殺人罪となる
(29)主治医と一緒にこの治療を考えた家族は共同正犯で同じ殺人罪の可能性あり

逮捕・有罪を防ぐため精神科主治医のする事

(1)できるだけ専門的医療の必要な患者は入院させない
(2)入院後は食事ができなくなれば全員胃瘻造設、
(3)頻回に他科、特に内科へ診察に行かせる
(4)24時間の付き添いを家族に了承させ、内科への転院をはかる
(5)転院が出来ない時は退院し内科通院をしてもらう
(6)内科病院からの転院は、大学病院や医療センターにしてもらう
(7)生活能力低下を理由の診療所などからの入院依頼には対応しない
(8)大学病院や医療センターに転院する約束が出来ない人は入院をさせない。


社会的結果

(1)精神科への高齢認知症患者の入院は出来なくなる
(2)総合病院に高齢認知症患者があふれ、一般の治療が不可能になる
(3)総合病院からあふれた患者は自宅に帰される
(4)家族は仕事を休まざるを得ない
(5)仕事を休めない家では放置に近い悲惨な介護を受ける
(6)徘徊にて行方不明、交通事故死が頻発する
(7)尊属殺人の頻発
(8)患者死亡時は虐待で家族が逮捕される


療養型病床、特別養護老人ホーム グループホームの患者

(1)症状悪化ですべて高度総合病院へ
(2)専門的医療を強制される。
(3)24時間の付き添いを強制される
(4)経済的に破綻する
(5)入院継続が不可能となる
(6)療養型、特老とも引き取らないから自宅へ
(7)介護保険だけでは不可能で家族は仕事を休まざるを得ない
(8)仕事を休めない家では放置に近い悲惨な介護を受ける
(9)患者死亡時は虐待で家族は逮捕される
(10)家族崩壊


●結果
 高齢者医療費の爆発的膨張。
 高度総合病院は高齢者で満床となり壮年期は治療が受けられない
 壮年期の労働不可能状態。
 虐待、尊属殺人の頻発


自宅での看取り患者 ホスピスの患者
(1)多臓器の機能低下状態
(2)癌、脳梗塞、心不全、腎不全、糖尿病ほか
(3)家族と相談し、専門的医療を受けずに経過(転医義務違反)
(4)専門的治療は出来ずに症状悪化(最終期には心神喪失状態)
(5)多臓器不全に近い状態で原因不明死
(6)医療事故的死亡(医師法第21条の異状死)に近い状態での死亡
(7)以後は高齢認知症患者のケースと同じ。同意した家族は共同正犯となる(殺人罪の可能性)(家族の誰かが訴えれば主治医は逮捕、有罪確実)


●結果

(1)日本の社会を支えてきた家族の同意による終末は不可能になる。
(2)在宅死が不可能となる。
(3)すべての高齢者が総合病院にはいらざるを得ない
(4)家計の破綻、国家財政の破綻
(5)日本的風土の破綻、


 介護保険システムの崩壊

 介護保険のシステムの中に、「かかりつけ医の意見書への記入」、「ケアマネが医師の意見を聞き実施する」という項目があるが、これも医師の責任という意味では、訴訟の可能性(たとえば自宅介護中に徘徊、事故死などあれば指導した医師の責任が問われる)があり、「かかりつけ医の意見書」さえ書けなくなり、崩壊する。

 (家族、年齢、費用などを考えて)自己流の断続的な治療をする患者

 その死に対してもすべての医療者は結果責任を負わされるため、

 標準的な治療を受けるよう常時患者を説得しなければならない。

(1)検査に来なかったのは医師の説明が、努力が足らなかった。
(2)専門医に掛からなかったのも主治医の説明が、努力が足りなかった。
(3)専門病院に入院できなかったのも主治医の努力が足りなかった
(4)一度でも診察しているわけであるから症状が悪化するのを予見できたにもかかわらず回避努力を怠った。

●結果

 以上の根拠で家族の誰かが委員会か警察に訴えれば、逮捕、有罪、損害賠償医師は一度でも診た患者は常に経過に責任を持たなければ有罪、損害賠償日本人は本人が希望する高齢期は送れなくなる。
(医者にまったくかからないか、総合病院でのある意味で悲惨な最期のどちらかしか選択できない)

 高齢者の診療にかかわったすべての医師(診療所・病院にかかわらず)は多数の医療訴訟に見舞われる。


 自殺者に関して

 すべての臨床医が訴訟の対象となる
 この法律は施行後、すぐに実施不能となる

 医療安全調査委員会の取り扱い件数は年2000件を想定しているようであるが、

(1)自殺した人(日本では10年連続3万超)の40~60%(1万5千人)は、自殺する以前の1ヶ月間に医師(多くは一般医)のもとを受診している(WHO)。
(2)平成17年の精神及び行動の障害患者の総数(認知症は含まない)が265万人。自殺者数は500人に一人でも5300人。
(3)自殺の場合は警察が関与するから、委員会には原則すべて届けるしかない。厚労省の見解も自殺の場合は届ける必要があるケースがあるとのこと。国内において一件でも届け出違反を指摘されれば、以後は自殺者全員の届出になる(4)高齢認知症患者(200万人)などの多臓器不全での死因不明の死亡。
(5)在宅での医療事故死.他科での医療事故死も多数
(6)合算すれば優に一万件は超える。
(7)「疾病自体の経過としての死亡」ということで中止としても、膨大な数になり法律の実施は不可能となる。
(8)自殺した以上、調査報告書において過失、改善点など必出。
(9)公表された書類を持って遺族の一人だけでも刑事、民事裁判の窓口に行けば、訴訟となり敗訴はしない。
(10)自殺に関して一般医でも予見可能性、回避努力違反、注意義務違反が指摘されれば

 精神科だけでなく、すべての一般医が訴えられる事になる。


不満家族の行動

(1)家族とは三親等までで最低でも10人はいる
(2)三親等は本人およびその配偶者の両親、祖父母、曾祖父母 子供、孫、曾孫、兄弟、叔父叔母、甥姪
(3)10人以上の家族に症状の変化ごとに治療方針の説明をすることは不可能
(4)死亡後経過に納得しない家族が一人はいる
(5)主治医を訴えようと思えば、書類一枚を医療安全調査委員会に提出
(6)地方委員会の公表を待つ
(7)公表書類を警察に持ち込めばすべて終了
(8)それも面倒であれば異状死だと警察に通報
(9)警察が地方委員会に調査を要請
(10)公表される内容に過失や改善点が少しはある。
(11)不作為型医療事故と転医義務違反、予見可能性と回避可能性論、注意義務違反論、業務上過失論、契約不履行論で逮捕
(12)起訴し有罪
(13)不満がある家族が民事にも提訴(労せずして誰でも1千万円以上位の賠償が取れるから、主治医の努力に納得していても、誘惑に勝てない人が続出する。)
(14)裁判を嫌う病院からは示談金をもらえる
(15)裁判で争っても敗訴にはならない
(16)医療訴訟が増大

●結果

(1)介護者がいないということだけでは精神科には入院できなくなる
(2)高齢者の診療にかかわったすべての医師(診療所・病院にかかわらず)が過失がなくても、多数の医療訴訟に見舞われる。
(3)医療訴訟が膨大な数になる(数万件)


治療方針に同意した家族の危険性

(1)高齢認知症患者の家族
(2)介護と医療に困って入院させる
(3)専門的医療が必要になる
(4)転院先が決まったのでと24時間の付き添いを要求される
(5)24時間の付き添いは不可能
(6)専門的医療を断念する事を主治医と決める
(7)死亡したとき主治医が医療安全委員会に報告する
(8)治療方針に関して家族の関与を調査される
(9)調査報告書が公表される
(10)日本全国に自分の家族のプライバシーが公表される
(11)専門的医療を受けさせなかった事がわかる
(12)家族や周囲の人に非難される
(13)時に重大な過失(標準的な医療行為から著しく逸脱した医療)と認定される
(14)主治医が警察に逮捕される
(15)治療方針に同意していたという事で共同正犯となる
(16)刑法上の罪に問われる
(17)主治医が殺人罪に問われれば自分も殺人罪を問われる


 あとがき;

 実は医療にとって更なる大問題が出現しています。

 弁護士の棚瀬慎治氏がm3.comの「医療維新」のインタビュー(2008年3月19日)で語っておられる「改正検察審査会法」のことです。少し長くなりますが引用します

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 2004年5月28日に、「検察審査会法を改正する法律」が公布されました。この法律は、2009年5月27日までに施行するよう定められています。

 現行と大きく異なるのは、検察審査会が第一段階と第二段階の二階建てになるという点です。

(1)検察審査会が「起訴相当」とし、検察が「不起訴」などとした場合、検察審査会の再度の審査に付され、

(2)検察審査会が再度、「起訴相当」とした場合に、検察に代わって「指定弁護士」が起訴する――という形になります。

 つまり、検察の判断にかかわらず、起訴が可能になる新たな仕組みが誕生するわけです。患者遺族が捜査機関に告訴し、検察が「不起訴」としても、その後、検察審査会で再度「起訴相当」とされれば、「必ず起訴」されるのです。

 ――検察官に代わって起訴を行う、「指定弁護士」とは何でしょうか。

 これは現行制度にはありません。裁判所が指定するもので、検察官の代替役を果たす弁護士です。検察審査会が第二段階で「起訴相当」とした場合、起訴を行います。その後の刑事裁判でも、検察官の代わりに指定弁護士が公判の維持に当たり、尋問などを行います。

 また、第二段階の検察審査会では、弁護士は法的助言を行う役割も果たします。

 つまり、新たな仕組みでは、検察審査会への不服申し立てから起訴に至るルートで、弁護士が関与する機会が増えます。前述のように、医療事故を扱う弁護士はそう多くはありませんので、医療に精通していない弁護士がかかわる可能性も十分に考えられます。しかも、検察審査会は国民で構成するため、どうしても患者側の視点に立つ傾向にあります。

 ――新たな制度が始まれば、“医療事故調”を設立しても、「医学的に不当な起訴」の問題は、必ずしも解決しない恐れがあると。

 現在の刑事裁判をめぐる問題として、医療に精通していない警察・検察が捜査・起訴を行うことが挙げられます。現在、厚労省は“医療事故調”の創設を検討していますが、それによりこの問題は解決するかのような説明をしています。医師などが参加する医療安全調査委員会で診療関連死の死因究明などを行い、報告書をまとめますが、そのうち調査委員会が警察に通報するのは、故意または重大な過失に限るとしているからです。また「遺族が警察に告訴しても、すぐ捜査はせず、調査委員会を使う」といった説明も聞かれます。

 しかし、このように調査委員会で医療者が専門的に死因究明を行っても、検察審査会法が改正されれば、全く別のルート、つまり医療の専門家の視点を通さずに起訴されるルートが誕生するのです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上がインタビューの内容です。

 これから後、医療安全調査委員会の制度や改正検察審査会法が始まると、社会の中で誠実に対応した、医師や看護師、消防士、救急隊などの活動に関してその不完全さが追求され、警察官さらには裁判官などにも刑事訴追が適用される時代が来ます。最後には、命を賭して防衛活動や災害救助活動をする自衛隊員にも刑事訴追が適応されることになり、公共のために責任感を持ち努力する人間が皆無となるでしょう。

 私は誠実に行われた社会的活動に対しては刑事免責すべきだと考えます。福島の事件のような刑事訴追が他国にはないのはそれが国家の根幹を成すことを、どの国も知っているからです。幸運にも日本民族は60年の長きにわたり、祖国のために死んだ自国民を持ちませんでした。このことが誠実な、他人のためになす社会活動に対する価値観を鈍らせ、日本人の内向的かつ潔癖性向と交叉し、現在のような自虐的な行動を招来させていると思われます。犯罪的な破廉恥な医療があれば徹底的な糾弾をすべきです。しかし誠実に行われた医療活動は刑事免責にすべきです。そして他人のために努力することや他人を思いやる心を再度、日本の根幹となすべきです。不幸な結果となった家族は国家が支えるべきです。そのことが国民全体の安寧につながり、しかも日本人の本来持っている精神性に合致する在りよう、別して言えば、最も心豊かに生きられる在りようです(他人のために努力することや他人を思いやる心がこの国では最も崇高な価値と尊敬されてきたものです。宗教的規範にすがらず情や廉恥心などの人間関係にて自己を律してきたのです。それが国の根幹であったのです。今流に言えばセーフティネットであり、このことが脆弱になるに比例して、社会的混乱や幸福感のレベル低下が出現していると考えます)。これはためになす言説ではなく、現実に30年間、精神科医として、多くの人の心の変化を見てきた結論です。

 日本人はここで踏みとどまり、もう一度日本人としての自我を取り戻す必要があります。世界はグローバル化していると喧伝されますが、実際は民族性、宗教性などに基づく再編期に入っており、それぞれが自我を取り戻そうと必死に努力しています。

 日本人ももう一度その精神性、自我に基づき民族としてまとまりを取り戻さなければ、グローバル化に飲み込まれ、自我を失った悲惨な状態となることでしょう。

 誠実に職務を果たす医師、看護師、警察官、消防士、自衛隊員その他の人々の心が一度崩壊すれば、もうこの国に未来はないと考えるべきです。喜ぶのは外国だけです。

 まずすべての医師が団結し、刑事免責を日本の社会に根付かせるべきです。

 (法律を変えれば可能です。これを簡単と見るか、困難と見るかは覚悟一つでしょう。;司法関係者は法律が変わればその法律に基づく行動を取ると明言しています。)

 次回はその方法について提言します。

2008年10月06日

臨時 vol 140 「厚生労働省「医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案」に対する見解について」

2008年10月6日発行


有限責任中間法人日本救急医学会
代表理事 山本 保博

診療行為関連死の死因究明等の
在り方検討特別委員会
委員長  有賀  徹

※この記事の内容は日本救急医学会のHPに掲載されており、ご許可を頂き転載しております。

 この度、厚生労働省「医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案」について、本学会特別委員会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」において、見解がまとめられました。

 この見解を厚生労働省のパブリックコメントに投稿いたしましたので、会員の皆様にご案内申し上げます。


 厚生労働省「医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案」に対する見解


平成20年8月28日

 日本救急医学会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」では、厚生労働省の「診療行為に関連した死亡に関わる原因究明等の在り方に関する検討会」による「第三次試案」(平成20年4月3日)に対して、是非とも見直しを行うことにより“よりよい試案”が作成されるように希望したところであります(平成20年4月9日)。この度「医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案」(平成20年6月13日)が厚生労働省から示されました。しかし、本法案(以下、大綱案)は、よりよい内容に至っていない、またはより劣った内容であるとさえ判断できますことから、日本救急医学会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」ならびに日本救急医学会理事会は大綱案に反対いたします。


I はじめに

(1) 医療安全を構築することと紛争を解決することの違い

 大綱案は、厚生労働省の「診療行為に関連した死亡に係る原因究明等の在り方に関する検討会」による「第三次試案」(平成20年4月3日)を法案として示されたものです。しかし、日本救急医学会が既に指摘(上述、平成20年4月9日)いたしましたように、原因究明を通じてより安全な医療を展開しようとする作業と、原因に関する責任を追求する作業とが本質的に異なる手法であるにもかかわらず、大綱案ではこれらの「両者を行う」という枠組みが維持されています。これは間違った方法であり、救急医療の厳しい現場において真摯に医療の安全を築き上げようとする、私どもの立場からも、この枠組みを受け入れることができません。

(2) 背景にある諸問題

 近年、医療側にとって、特に救急医療の現場に携わる私どもからみて、理解不能な刑事訴追や書類送検(検察官送致)、医療の実態を無視した民事判決があり、加えてそれらに関するマスメディアの過剰とも言える報道が散見されます。後者には実名報道なども含まれます。そのような状況にあって、原因究明を専ら行うことができて、公正性・透明性の確保された第三者機関の設置を望んできたところでもあります。

 そして中でも、業務上過失致死傷罪で起訴する際の法的判断に対する疑問への解決があり得ることについて特に注目してきました。しかし、この問題は単に医師法第21条(異状死の届け出)における届け出の範囲を設定することにとどまるものではありません。ここには、前段で理解不能と表現した諸々に関する私どもの不安や不満があります。従って、このような点を基本に置きながら、原因究明を行うことのできる、公正性・透明性の確保された第三者機関の設置について再考していく必要があると考えます。

(3) 法曹界への要望

 上記(1)にありますように、そもそも「不適切であった可能性のある自らの処置など」については、責任の追及とは無関係な状況のなかでこそ述べられるものです。責任を追及される懸念を抱きながら述べることなどあり得ません。しかし、大綱案に則れば、刑罰をもってこれを当事者に強要する建前となっており、これはテロリストにすら与えられる権利、国民に等しく保障されている権利さえも奪うものと主張する意見が法曹界にみられます。

 そして、その大綱案に記載されている法的な文章は、私ども医師にとりましては、非常に難解であり、文章自体ならびに行間に含まれる意図を十分に読みこなすことができません。それ故、法曹界には、より積極的に大綱案の法的な解釈について多角的な検討を加えるなどして、私どもに易しく理解を促して下さいますように切望いたします。


II 問題点と今後の課題・提案など

(1)大綱案にある“喫緊”の問題点

 大綱案は、日本救急医学会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」が「第三次試案」(平成20年4月3日)に対して公表した見解( 平成20年4月9日)で示した問題点を解決することなくそのまま含んでいます。従って、基本的な問題点については、この見解を参照していただきたく思います。しかし、法律の文章の案としての大綱案が持つ問題点として、救急医療に携わる立場から日本救急医学会が最も切実で重要であると考えるのは、以下の通りです。

 すなわち、「IV 雑則 第25 警察への通知」の中に「(2)標準的医療から著しく逸脱した医療に起因する死亡」があります。この表現が非常に曖昧で、私どもにはその具体的な内容が特定できません。現在の医師法第21条に関連した混乱と同様の状況に恐らく陥るであろうことを懸念します。

 同じことは「VI 関係法律の改正 第32 医療法の一部改正 (2)病院等の管理者の医療事故死等に関する届け出義務等」の項目でも指摘できます。「(4)医療事故等に該当するかどうかの基準」についても、その「基準を定め、これを公表するものとする」と記載されているだけで、未だにその内容は示されておりません。

 本来は、この問題こそ厚生労働省の検討会において十分に検討し、具体的に提案すべき事項であったと考えます。


(2)医療における業務上過失致死傷罪の判断基準が不明確であることについて

 重要で本質的な問題として「医療における業務上過失致死傷罪の対象となる範囲が不明確であること」が挙げられます。これを明確にすることが是非とも必要です。これが明確化されない限り、私どもにとって“いつ刑事訴追されるか分からないまま”の不安な状況は続きます。そして、その間にも紛争のリスクが高い急性期医療を中心に“萎縮医療、防衛医療、勤務医の病院からの立ち去り”が進行して行きます。「救急患者を断った方が安全」という考え方が少なからず医師の間に浸透している現状は、残念ながらすでに周知の事実です。

 検察庁を含む法曹界は、医療における業務上過失致死傷罪の対象となる基準を明らかにして、医療側の不安を早急に払拭する必要があります。法曹界には I(3)にあります要望と同様に、医療における業務上過失致死傷罪の客観的な判断基準などに関しても積極的な関与を賜りたく思います。


(3)上記(1)(2)に関連する提案

 刑事事件として起訴する要件の一つとして、ある検事によれば、それは「過失の明白さ」であると言います。つまり「医学会で議論の余地のない程の明快さ」を挙げています。

 日本救急医学会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」では、「重大な過失」あるいは「標準的医療行為から著しく逸脱するもの」があまりに曖昧であることから、これらに代わるものとして、「医療における明白な過失」という概念があるのか、またそれがあったとしてどのようなものなのかについてなど、現在も検討を進めています。今後その成果について必要に応じて提案することも考慮したく思います。


(4)法と医の対話を

 医療に携わる私どもも、最近では「I はじめに」の(2)で言及しました状況に鑑みて、法律の基本的な概念について真剣に理解するように努力をしています。しかし、どのように努力を尽くしても、私どもにとって法律の知識は非常に限られたものであることを否めません。そして、また同様に、法曹界にある方々にとっても、医学・医療について十分な知識を持っているとは言えません。

 私どもは、医学界と法曹界とが、今や共に上記(1)(2)の問題について真剣に議論すべき時期が到来していると考えます。同じく(3)はそのための、いわゆる叩き台となるかもしれません。いずれにせよ、法と医の対話なくしてこれらの諸問題は決して解決できるものではありません。

 大綱案の細部についての議論が既にここかしこで行われていることは承知しております。しかし、そのような議論に先駆けて、上記(1)(2)に関して「法と医が対話する場の設定」を強く要望いたします。医療における業務上過失致死傷罪の対象となる基準を作成するためにも、法曹界と医療界が一致協力して議論すべきであり、私どももそのための協力を惜しむものではありません。


III まとめ

(1)厚生労働省による「医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案」(平成20年6月13日))は、それに先立つ「診療行為に関連した死亡に係る原因究明等の在り方に関する検討会」による「第三次試案」(平成20年4月3日)に比して、よりよい内容に至っていない、またはより劣った内容であるとさえ言うことができます。

日本救急医学会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」ならびに日本救急医学会理事会は大綱案に反対いたします。

(2)大綱案の持つ問題点は、例えば医療安全を構築することと紛争を解決することの違いを区別できないままの枠組みが維持されているなど、「第三次試案」と本質的に同様であると言うことができます。

(3)上記の例示にあるような矛盾の帰結として、大綱案には、自白を強要するかのごとき“憲法違反”の可能性をも新たに包含するに至っています。法曹界の積極的な関与が切望されます。

(4)大綱案にあります「警察への通知」、「標準的医療から著しく逸脱した医療に起因する死亡」や、関係法律の改正に伴う「病院等の管理者の医療事故死等に関する届け出義務」、「医療事故等に該当するかどうかの基準」などに鑑みますと、“医療における業務上過失致死傷罪の判断基準を明確にすること”がなにより優先すべき課題であると考えます。

(5)日本救急医学会「診療行為関連死の死因究明等の在り方検討特別委員会」では、「重大な過失」あるいは「標準的医療行為から著しく逸脱するもの」に代わるものとして、「医療における明白な過失」という概念について検討を進めています。このことに関連して、また“医療における業務上過失致死傷罪の判断基準”を明確にするためにも、今や医学界と法曹界とが真剣に議論すべき時期が到来していると考えます。そのような「法と医が対話する場」の設定を強く要望いたします。

 日本救急医学会としては、今後も、必要かつ適切な救急医療を提供することに、引き続き全力を尽くす所存であります。そのためにも、原因究明を行う、公正性・透明性の確保された第三者機関の設置が大いに期待されるところではありますが、ここに述べました意見などを充分に汲まれますことを希望いたします。拙速な法律の策定とならないようにここに強く要望いたします。

以上

2008年10月02日

臨時 vol 139 「医療事故調 対立の概要と展望」

008年10月2日発行

 Medical Accidents Investigation Commission: The Outline of Conflict and the Prospect

                 虎の門病院 泌尿器科
                 小松秀樹


今回の記事は
1)大野病院事件の判決の前にかかれたものです。
2)初出は、小松秀樹:医療事故調―対立の概要と展望.医学のあゆみ,226(9)
:630-635,2008.です。


●サマリー
 1999年の「人は誰でも間違える」の出版は医療安全における世界的なパラダイムシフトをもたらした。新思考は学習改善型とでも言うべきもので、「人間は間違いを犯しやすい性質を持っており、その性質を変えることはできない。医療事故は個人ではなくシステムの問題と捉える。間違いが起こることを前提に、間違いを起こせない、あるいは、間違いがあってもどこかで修正できるようにシステムを構築する。そのためには、広く事故情報を収集して過去の失敗に学ぶ必要がある」と考える。このため、医療の安全対策と責任追及は切り離すべきだと考えられるようになった。医療事故調(医療安全調査委員会)についての厚生労働省案は、医療、運輸、工学の安全の専門家が正しいとする考え方と食い違っている。患者と医療提供者の軋轢を高めて医療提供体制を破壊する可能性があり、現場の医療提供者による強い反対を受けている。


●はじめに

 医療事故調(医療安全調査委員会)についての厚労省案(第二次試案-第三次試案)をめぐって議論が続いている。

 医療問題解決のための施策は、現実と乖離した規範の実現を目的とすべきではない。人間の特性と現実を踏まえて、実行可能性と結果の有用性を基準に制度設計を行わなければならない。

 「正義」は立場によって大きく異なる。「正義」は怒りと攻撃性を秘めている。このため「正義」を実現しようとする努力が、しばしば、社会にとって有害な結果をもたらす。医療事故調をめぐって、医療提供者は規範よりも現実の患者の利益を重視し、厚労省は規範を重視して患者の不利益を無視する構図になっている。


●規範はときに有害になる

1.例1 新建築基準法

 07年6月施行された新建築基準法は、耐震偽装という悪の撲滅を正義とした。厳格な規則の体系で現場を縛った。その結果、住宅着工は激減し、多くの優良な会社が倒産した。07年度の日本のGDPを1%近く低下させたとする推測もある。そればかりか、コスト上昇のため、風力発電まで壊滅させてしまった。

2.例2 医療機器開発

 世界の医療機器マーケットが拡大している中で、日本のシェアは低下し続けている。日本では、治験段階から完全な本生産設備の整備を求められる。医療機器開発に対する厚労省の立場を、ある課長補佐が「私どもは、国民の安全のための審査をするところでして産業振興・育成は経産省の仕事と思っています」と表現した。自分たちの責任を問われないようにするために、医療機器を開発させないと言っているように聞こえる。化学技術戦略推進機構の「医療機器開発の促進/活性化に関する調査報告書」では、企業の医療機器開発への参入意欲が低いこと、その背景として「行政の許可承認を事業の阻害要因と強く感じている」ことが明らかにされている。


●医療事故調の目的をめぐる議論

 2007年4月、医療関連死究明の在り方の検討会が始まった当初、医療事故調の目的が、過去の責任追及なのか、それとも、未来の医療の安全向上なのかという質問が樋口範雄委員から提起された。しかし、検討会では本格的な議論はなされなかった。目的があいまいにされたまま、噛み合わない議論が続けられた。

 検討会の前田雅英座長(刑法学者)から提案があり、07年8月14日の讀賣新聞紙上で医療事故調の目的について議論をした。前田氏の主張に付けられた見出しは「法的責任追及に活用」であり、私の主張の見出しは「紛争解決で医療を守る」だった。日本の省庁の審議会の委員、特に座長は、意見集約の責任を担うという意識が強く、事務方の意向に沿って発言する。「法的責任追及に活用」という主張は、厚労省の事務方の考え方を反映していると見るのが普通だろう。


●パラダイムシフト

1.旧思考と新思考

 本質的に医療行為は危険なものである。有害事象が入院患者の10%前後に発生する。有害事象には、不可抗力による合併症、偶発症に加えて、知識・技量の差、過誤によるものが含まれる。有害事象をどのように扱うのか。1999年の「人は誰でも間違える」(アメリカ医療の質委員会/医学研究所)の出版は世界的なパラダイムシフトをもたらした。

 1)旧思考(責任追及型)

 「過失により人に傷害を与えたり死に至らせたりすることは、個人の罪であり、個人への応報はそれ自体が価値である。また、処罰により事故が防止され、社会の安全が向上する」

 2)新思考(学習改善型)

 「人間は間違いを犯しやすい性質を持っており、その性質を変えることはできない。間違いが起こることを前提に、間違いを起こせない、あるいは、間違いがあってもどこかで修正できるようにシステムを構築する。そのためには、広く事故情報を収集して過去の失敗に学ぶ必要がある」

 旧思考は、法律、行政、メディアに親和性が強い。例えば、刑法学は、応報そのものに価値を見出す。犯罪の抑制効果も刑罰を正当化する論拠になっているが、刑罰とその決定までの過程に思考がとどまり、刑罰が社会全体にどのような影響を与えるのかについて、関心を持っていない。

 これに対し、新思考は、現実を受け入れて適応しようとするものである。医療、航空運輸、原子力発電などの現場に広く浸透している。そもそも、新思考は工学分野に起源がある。日本学術会議の工学系を中心とする専門家は05年、「事故調査体制の在り方に関する提言」で同様の主張をしている。


2.WHOの考え方

 WHOは医療安全向上のためには、旧思考より、新思考が有効と考えている。医療全般を旧思考で取り締まると弊害がでる。05年のWHOの事故報告制度のガイドラインでは、報告と処分が連動されないこと、患者、報告者、病院の個別情報が明らかにされないこと、医療が置かれた環境や、背後にあるシステムの問題を熟知した専門家が分析を担当すること、個人の能力よりも、システム、プロセス、最終結果をどのように変えられるかに焦点を当てること、用語の標準化、医療安全を阻害する要因の分類の統一などが求められている。

 WHOの考え方は世界に認められている。アメリカ連邦法の「患者安全および質改善に係る法律」(2005年)はWHOの考え方に則っている。

 日本で04年に開始された医療事故情報収集等事業も、WHOの考え方に沿ったものである。事故情報は、医療機能評価機構におかれている医療事故防止事業部に集められ、匿名化された上で分析されている。情報が不十分な場合には追加調査が行われることもある。報告書が3ヶ月に一度出されている。医療安全情報も1ヶ月に一度のペースで医療機関に周知されている。


●対立の起源

 医療事故調について厚労省が最初に明確な方針を打ち出したのは、07年10月17日の第二次試案である。第二次試案の「1 はじめに」は理念部分で、旧思考の立場に立つ。「予期しない死亡が発生した場合に、遺族の願いは、反省・謝罪、責任の追及、再発防止」であり、「これらの全ての基礎になるものが、原因究明」であるとしている。原因究明の目的は、反省・謝罪を求めること、責任追及、再発防止にある。文言上は、前田座長の主張どおり「法的責任追及」が主目的となっていると読み取れる。この考え方が第三次試案にも引き継がれている。

 医療システムは、世界同時に発展し、国内法とは関係ないところで、正しさが決められ、それが日々更新されている。共通言語は英語と統計学である。世界の医師は、医療システムが形成している合理性を尊重し、その発展に寄与する。日本の医師も例外ではない。厚労省案の理念が世界における医療安全の考え方と食い違ったために、深刻な対立が生じた。


●厚労省第三次試案の問題点

 第三次試案は医療安全の確保を目的にすると明記している。同時に責任追及も行おうとしているために無理が生じている。ここでは二つの問題点についてだけ言及する。

 1.患者と医療提供者の軋轢を高める

 厚労省案に対して現場の医師からの反発が大きいのが、個人の処罰に報告書が使われることである。03年ごろを境に、大病院には院内事故調査委員会が置かれるようになった。多くの病院で、医療事故をシステムの問題として捉え、ヒューマンエラーを処罰の対象としていない。医療事故について病院は患者側に極めて正直に話すようになった。厚労省案はこのような院内事故調査委員会における調査・評価を重視している。当然、院内の調査結果が医療事故調の調査報告書に盛り込まれる。となれば、院内事故調査委員会での議論が、個人の処罰に直結する。証言は極めて慎重なものにならざるをえない。日本国憲法38条には「何人も自己に不利益な供述を強要されない」と書かれている。第三次試案では、「医療従事者等の関係者が地方委員会からの質問に答えることは強制されない」との文言があり、処罰を前提の調査であることを厚労省が強く意識していることがうかがえる。しかし、事故について最も多くを知るのは当事者である。処罰を前提とした調査では、必然的に事実が表に出にくくなる。現在、一般的に行われるようになってきた患者への率直な説明に支障をきたす。

 当事者が自分を守るための努力をすることを禁じて、処罰を前提にした調査を行えば、行き過ぎが生じる。逆に、当事者が自分を守るために努力をすると、せめぎあいが生じる。処罰を前提とした調査は、裁判制度と同様に対立を深めることになる。

 厚労省は報告例が年間2000ないし3000例あると予想している。運用次第で、年間1万を越える例が調査される可能性もある。関係する医療提供者はその数倍から十数倍になる。多数の医療提供者が常に、処分を前提とした調査の対象、すなわち被疑者として扱われることになる。特殊な少数例を対象とするのならよいかもしれないが、普通の医療行為を制御する方法としては、穏当ではない。紛争になりやすい救急重症患者の診療など、重要度の高い医療の引き受け手がいなくなることは想像するに難くない。

 2.民事訴訟が増える

 患者側弁護士が訴訟を行う上で最も苦労するのは、専門家の鑑定を得ることである。

 医療事故調が設立されると、彼らは、当然、地方、中央の委員会の全てに、患者側弁護士を委員として押し込む努力をする。委員になれば、報告書を「鑑定書」として使用可能なものにするために全精力を傾けるだろう。

 医師がカンファレンスで過去の症例について議論するときは、将来の医療の向上のために、あらゆる観点から反省点を出し尽す。これが医療の進歩を支えてきた。そもそも、医師のカンファレンスでは過失責任に対する身構えのようなものはない。反省点と過失の区別は難しい。

 第三次試案では、極めて広い範囲の事故の届出が義務付けられている。結果として、弁護士が紛争に関わって勝てる、すなわち、金銭的メリットが得られる事例が、権威が付与された報告書付きで大量に提供されることになる。

●医師法21条問題

 医療事故調問題を複雑にしているのが医師法21条をめぐる問題である。医師法21条は「医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と規定している。そもそも、故意犯罪の発見を容易にするための規定だった。1949年、厚生省医務局長通知で「死亡診断書は診療中の患者が死亡した場合に交付されるもの」であり、「死体検案書は、診療中の患者以外の者が死亡した場合に、死後その死体を検案して交付されるもの」として、診療関連死は医師法21条の届出対象ではないと判断していた。

 99年の都立広尾病院事件とその報道を受けて、2000年、厚生省は、国立病院部政策医療課が作成したリスクマネージメントマニュアル作成指針に「医療過誤によって死亡又は傷害が発生した場合又はその疑いがある場合には、施設長は、速やかに所轄警察署に届出を行う」と記載し、医師法21条の解釈を変更した。

 警察はその性質上、届出があると、犯罪を立証しようと努力する。2000年以後、厚労省の指針にしたがって届出を行なった多くの病院が、犯罪を前提とした警察の乱暴な捜査を受けることになった。しかも、業務上過失致死傷は、医療との相性が良く、簡単に構成要件(予見義務違反、結果回避義務違反)を言い立てることができる。警察への届出の増加により、医療での刑事訴追が増加することになった。現在の医師法21条問題の発端は、報道に過剰反応した行政官の判断ミスに起因している。

 第三次試案では、医療関連死における医師法21条の異状死の届出先を、医療安全調査委員会(医療事故調)にするとした。しかし、医師法21条の問題は、本来の趣旨からみても、医療との関連で議論すべきではなく、かねてより大きな欠陥が指摘されている変死体の医学的検索制度、司法解剖制度との関連で議論すべきものである。厚労省は自らの解釈ミスに乗じて、権限と組織の拡大を図っているようにみえる。


●医療提供者への非難と処罰の在り方

1.単純過失は処罰すべきか(事例1)

 京大病院で2000年3月人工呼吸器の加温加湿器に消毒用のエタノールが誤注入され、患者が死亡した。当事者の新人看護師は加湿器の水がなくなったら、調乳室にあるポリタンクの滅菌水を使用するよう上司からアドバイスを受けた。ところが調乳室にあったよく似たポリタンクにエタノールが入っていた。複数の看護師が加湿器にエタノールを補充した。タンクをベッドサイドに運んだ新人看護師が、業務上過失致死罪で有罪になった。

 明らかな誤りのために女性が死亡し、新人看護師が有罪になった。刑事司法では、死亡結果があって、注意義務違反の構成要件が法廷で認められると、刑罰を発生させることができる。

 一方、ヒューマンファクター工学では、人間は、疲労や、環境の影響のために、簡単に誤りを犯すと認識する。そこで、システムを工夫して被害が生じないように努力する。

 そもそも、全医療集合から業務上過失致死傷医療集合を切り取るための理念と方法に問題がある。法律家は、法令と過去の業務上過失致死傷裁判の判決文で公表されているものしか研究しない。ところが、非業務上過失致死傷医療集合の中に、多数の過誤が含まれている。実際に、被害の生じなかった過誤が、1病院あたり、毎月50ないし70件、医療機能評価機構に報告されている。被害が生じたかどうかは、状況に依存しており、本人が悪質かどうかとは関連しない。また、罰を科すことで、人間の誤りやすいという本性を変えることはできない。さらに、処罰は証言を得にくくして、事故の原因調査を阻害する。


 2.恨みが司法の過失判断に影響を与えることの是非(事例2) 

 「○○容疑者は04年12月17日、同県内の女性(当時29歳)の帝王切開手術を執刀した際、大量出血のある恐れを認識しながら十分な検査などをせず、胎盤を子宮からはがして大量出血で死亡させた疑い。また、医師法で定められた24時間以内の所轄警察署への届け出をしなかった疑い。胎児は無事だった。」(06年2月
18日讀賣新聞)

 この事件は、08年6月現在、裁判が進行中である。人間の死は不可避であり、医療には限界がある。医療は、結果を検証し、反省しつつ進歩している。常に反省をする以上、通常の水準の医療でも、結果が悪いとき、注意義務違反を言い立てることは難しいことではない。検察は起訴するかどうかの判断について明確な基準を描けておらず、被害の重大性、被害者側の処罰感情を判断材料にしている。これは、不都合なことが起きたとき「悪いやつを探し出して罰しろ」と主張する「被害者感情」が、制御なしに一人歩きをしている日本の風潮に通じる。検察に
は知的努力の余地がある。この事件で多くの医師の団体が抗議した理由はここにある。


 3.不誠実な医師を処罰できるか(事例3)

 血液透析を受けている患者に局所進行腎がんが見つかった。透析施設と同じ系列のA病院で手術を予定された。不安に思った患者は、セカンド・オピニオンを求めたいとしてB病院を紹介受診。患者はB病院での検査治療を求め、入院が予定された。これに対し、透析施設の院長からB病院にクレーム。また、患者にB病院に入院すれば、以後、透析施設で面倒を見ないと通告した。患者は、抗議することもできず、A病院で治療を受けざるをえなかった。


 4.事例の検討

 多くの医療提供者は事例1の新人看護師、事例2の産科医を処罰することに同意しない。普通に診療していても、同様な理由でいつ犯罪者として処罰されるかわからないと思っている。一方で、大半の医療提供者は事例3の透析施設院長を非難する。この透析施設の院長は自らの経済的理由を患者の利益や意思に優先させた。事例3では被害が生じておらず、司法はこの医師を非難する方法を持たない。B病院の医師が透析施設の院長を非難しても個人間の争いにしかならない。

 イギリスの総合医療評議会は、全医師が加入する団体で、自律的に医療の質を高めることを責務としている。医師の再教育や処分を担っており、そのための基準が適正医療規範である。その第一項目に「適正な医師は、患者のケアを最優先事項とする」(野村英樹、篠田知子訳)と記載されている。イギリスでは事例3の透析施設の院長に対し、総合医療評議会に処分を検討することを申し立てることができる。

 業務上過失致死傷罪の適用は、医療に限らず、多くの専門領域で問題になっている。日本の刑事司法は、専門システムにおけるヒューマンエラーについて、世界の進歩から取り残されている。今後、システム事故における個人の処罰の在り方について、鉄道、航空運輸、工学など広い分野を巻き込んだ根本的な議論が必要となろう。少なくとも、犯罪とされるものが、当該専門家にも納得できるようなものであり、自分が犯罪を実行することになるのかどうかが、実行前に当事者に分かるようなものでなければ、処罰のやり方によっては専門家をその職に留め
ることが困難になる。

●厚労省案をめぐる対立

 第二次試案の発表後、現場の医師による反対運動が始まった。多種多様な団体、個人がそれぞれ独自に、あるいは連携して情報発信を始めた。

 開業医はリスクを伴う医療を引き受けることが少ない。開業医の利害を代弁してきた日本医師会が、自分たちにあまり関係のない第二次試案に賛成したのは(第三次試案についても、日本医師会は賛成している)、診療報酬改定の時期に一致したためではないかと推測される。実際に、注目されていた診療所の再診料(病院より高額)が据え置かれた。

 モデル事業を担当していた学会代表は、第二次試案-第三次試案に賛成した。ただし、学会の意見はばらばらである。日本麻酔科学会、日本産婦人科学会、日本消化器外科学会日本救急医学会などは実質的反対あるいは明確な反対を表明している。全面的な賛成は日本外科学会のみである。

 病院団体については、当初、日本病院団体協議会が第二次試案に賛成を表明したが、時間経過から考えて、病院経営者の総意とは考えにくい。その後、病院団体内部での議論が深まるにつれ、反対意見が強くなってきている。日本精神科病院協会、全日本病院協会、日本病院団体協議会はそれぞれ、第三次試案に対する意見を発表し、医療安全の確保と責任追及は分離すべきであると主張した。他にも、全国医学部長病院長会議や全国済生会病院長会など、公的で影響力の大きい医師の集団が第三次試案に反対した。

 日経メディカルオンラインによるアンケート調査では、08年6月5日現在、医師372名中345名(92.7%)が第三次試案に基づき医療安全調査委員会を創設すべきでないと回答しており、大半の医師が反対していることが示された。

 一方で、医事紛争の患者側の団体、患者側弁護士、厚労省医政局の医系技官は、中央統制、責任追及型の医療事故調の設立を社会に強く働きかけている。

 厚労省では、舛添厚労大臣と医政局の不協和音が目立つ。舛添大臣は第二次試案については不十分であると言い切り、第三次試案発表直後に、不十分なら第四次試案を出すと明言した。


●おわりに

 医療事故調問題がこじれた理由は、厚労省が、世界の医療界で正しいとされる考え方に反する方針を打ち出したところにある。厚労省案の問題点が明確になるにつれ、与野党問わず、異論が出始めた。解決のための具体的な動きとして、08年2月12日「医療現場の危機打開と再建をめざす国会議員連盟」(会長・尾辻秀久参議院議員)が発足した。事務局長の鈴木寛議員は三つの目的、「第一に臨床の第一線で働く医療従事者の声を聞き、それを反映させた施策を作ること、第二に医療の諸問題は厚労省のみでは対応できないため、複数の省庁を取りまとめて解決を図ること、第三に国民全体として医療をどう考えるか、それを議論し、崩壊寸前にある医療を何とか再建すること」を挙げている。

 今後、政治の場で決着が図られると予想するが、日本の政治が混乱期にあり、どのような方向に進むのか定かではない。しかし、この問題は、将来の適切な医療提供体制の継続に大いに関係する。積極的に関わることは、医療提供者の責務であろう。

2008年10月01日

臨時 vol 138 「ここで頑張ってこそ、大野病院事件に区切りが付けられる」

2008年10月1日発行


   ~佐藤章 周産期医療の崩壊をくいとめる会代表 インタビュー~

        聴き手  「ロハス・メディカル」発行人 川口恭


――加藤克彦医師の無罪が確定してから1ヵ月も経たないうちに、妊産婦死亡した方のご遺族を支援する活動をお始めになりましたね。いろいろな意味で驚いたのですが、まずこれまでやってきた加藤医師の支援活動と今回の活動とどのように関係するのですか。

 まず誤解している方が多いようなので断っておきますと、大野病院事件で亡くなった方、そのご遺族に支援金を贈ろうとしているわけではありません。あくまでも今後発生するであろう妊産婦死亡の方が対象です。もちろん今後の運動の進み具合によっては遡って支援するということもあるかもしれません。

 一方で、加藤君の支援と全く関係ないとも思っていません。刑事裁判の最中でも一方的に『加藤君は悪くない』ではなくて、『医療の力が及ばず亡くなられたことは残念だ』とずっと言ってきたつもりです。医師が一生懸命にミスなく医療をしても亡くなることはある、その現実を分かってほしいと言い続けてきました。そして、そういう不幸なことが起きた時には医療者だって悲しいし、自分たちにできることはしたいんです。その、医療には限界があるという現実と我々だってご遺族に寄り添いたいんだという気持ちを分かってもらうにはどうしたらよいだろうと考えた時、百万言を費やすより行動で示すべきだと思っていました。ただ、そうは言っても刑事裁判が続いている間は迂闊な行動もできないわけで、幸い一審だけで決着がついたので、今回の活動を始めることにしました。


――加藤医師の支援活動に対しては、主に医療者以外から、医師どうしの庇いあいという批判もくすぶっています。そうではないと分かってほしいんだ、ということですか。

 そうです。周産期医療が立ち行かなくなったら、医療者だけの問題じゃ済まないんです。でも、それを加藤君支援の文脈で言っている限り、信じてくれない人は永久に信じてくれないでしょう。

 来年から始まる産科無過失補償が、脳性まひの赤ちゃん対象で、妊産婦死亡した方は救済の網から漏れてしまうことも産科医の間で問題意識がありました。ご遺族は悲しみと共に乳児を抱えて大変なご苦労なさっています。まさに大野病院事件も妊産婦の亡くなった事例でした。その方々に救済の網がかかるまで何年かかるかも分からない。だったら自分たちでやってみよう、こういうことです。モデルとしてイメージしたのは、交通遺児に対する支援活動です。


――それにしても素早かったですね。

 私自身、まだ大野病院事件の民事の決着もついてないのに早すぎるんじゃないかと最初は思ったんですが、刑事事件で医療界が盛り上がったのを無駄にすべきでないし、無罪だけで終わらせたら世間の医療界に対する目が一段と厳しくなるという意見があって、そう言われてみればそうだな、と。

 医師が一生懸命ミス無く医療を行っても、助けられない現実がある。それを医師にミスがあったかどうか、という次元に留まっていては、第二第三の大野病院事件が必ず発生してしまいます。ですから、私はこの周産期医療の崩壊をくい止める会では、その先の次元に進むことができるような活動をしたいと思ったのです。

 ただ、立ち上げを急いだために、実は1件あたりの支援金額とか、贈る対象者はどうやって申請したらいいのかとか、まだ細かいところが決まってないんです。なるべく早く決めたいと思います。

 そもそもいくら集まるのかも分かりませんしね。


――大した金額が集まらなかったら、先ほどの先生の言葉じゃありませんが、加藤医師支援の盛り上がりは結局身内の庇いあいだったのかと見られかねませんね。

 そうなんですよね。だから、そこは頑張らないと、と思っています。


――とはいえ、医療者だけでも継続性がないというか、何年も続けられないのではないですか。

 加藤君の支援をしてくれたのは医師ばかりじゃありません。この活動が良い活動だと思っていただけたら、そういった方々にも広く支援をお願いしたいと思います。それからメディアにも協力していただいて粘り強く広報活動を続けたいと思います。

 何年も継続できるかということに関しては、そもそも論で言えば、変にお産は安全という神話ができてしまいましたけれど、本当は危ないんですから、妊娠したら入る、あるいは妊娠の可能性が出た時、結婚した時とかに全員が加入して、あらゆる不幸なできごとを補償してもらえるような保険制度があった方がよいと思います。佐藤和雄先生などは、大野病院事件の前からそのように提唱されていました。ある程度、我々が頑張って成果を出してみせれば、この活動を種に制度が追い付いてくるという可能性は十分あると思っていますし、そうなるよう政治家の方々にもご協力いただければと思います。

 このインタビューは、ロハス・メディカルブログ(http://lohasmedical.jp)にも掲載されています。また、このインタビューを抄録したものが、ロハス・メディカル12月号に掲載されます。