臨時 vol 203 「メディアが報道しない東京都立墨東病院事件の背景」
2008年12月27日発行
妊婦と産科医の不安が解消されなければ、タライ回しはなくならない。
東京大学医科学研究所
先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門
上 昌広
今回の記事は村上龍氏が編集長を務めるJMM (Japan Mail Media) 12月17日発行の記事をMRIC用に改訂し転載させていただきました。
本年10月におこった東京都立墨東病院 妊婦搬送拒否事件をきっかけに、都市部における救急患者搬送体制の脆弱性についての議論が進んでいます。その後、杏林大学事件、札幌未熟児死亡事件が報道され、この問題が深刻であることは国民的なコンセンサスになりました。
過去3回の配信で、東京都における妊婦搬送拒否事件は、東京都内の医師の絶対数不足や財源不足が主因ではなく、1980年代に始まった医療の国家統制が医療現場の自己調整能力を損ねたためであると主張してきました。
1980年代、西側先進国では新保守主義が支持され、各国は「小さな政府」を目指し、行財政改革を進めました。中曽根政権下のわが国では、国鉄や電電公社の民営化に加え、医療費の抑制に努めました。この一環として国民皆保険制度が見直され、サラリーマンの負担増などが決まると同時に、医療の供給量を抑制するため、医学部定員、および病床数が削減されました。この政策は1980年代以降、舛添大臣登場まで抜本的に見直されませんでした。このため、1990年代以降に人口が急増した東京都の中央線沿線などの地域では、著しい医療供給不足に陥りました。この結果、東京都は全体として医師・病院は充足しているものの、著しい偏在が生じました。もしも、1980年代に医師数や病床数が規制されていなければ、医療需要の増えた地域には医療機関や大学病院が進出し、地元の医療を担ったことでしょう。事実、高度成長期に発展した東急線沿線や東武線沿線には、1960-70年代に昭和大学、東邦大学、帝京大学、日本大学、板橋中央総合病院グループなどが進出しています。
わが国で1990年代以降に人口が急増した地域は東京だけです。つまり、このような地域では、大きな人口規模を抱えながら、医療の供給量が不足していることになります。このように考えれば、今回の事件は「東京だから起こった事件」と考えることが可能です。
では、何故、この時期に東京の救急医療搬送制度が破綻したのでしょうか。前置きが長くなりましたは、今回は、東京都内妊婦搬送拒否事件の直接のきっかけについて紹介し、その対策を議論したいと考えます。
なぜ、妊婦の診療が拒否されるか?
墨東病院事件、杏林大学事件、札幌事件の妊婦に共通して言えることは、頭痛や腹痛が生じるまでは、普通の経過を辿っていたことです。このような妊婦が急変する訳ですから、地元の開業医は一刻も早く高度医療機関へ搬送しようと躍起になります。これは極めて合理的な行動です。
ところで、この状況は高度医療機関サイドには、どのように映るでしょうか。実は、2006年2月の福島県立大野病院の産科医師逮捕事件以降、地域の産科中核施設には中等症の患者が殺到しています。例えば、2007年11月に開催された現場からの医療改革推進協議会第二回シンポジウムで北里大学産科・婦人科の海野信也教授は、福島県立大野病院事件で話題になった前置胎盤の妊婦受入数が2005年の15件から2006年には31件に倍増したことを報告しています。この傾向は東京大学や自治医科大学でも同様であり、いずれの施設でも前年度比2-3倍に増加しています。
このシンポジウムでの海野教授の解説は正鵠を射たものでした。彼は、福島県立大野病院事件以降、産科医療の現場では以下のような動きが進みつつあると警告しています。
1)開業医と小規模病院が分娩取扱からの撤退し、分娩制限が急増している。この結果、分娩予約が困難になり、いわゆる「分娩難民」が増加している。
2)二次病院が、それまでは対応していた中等度のハイリスク症例を三次の総合周産期母子医療センターに紹介するようになった。
3)総合周産期母子医療センターに低リスクから中等度リスクの分娩が集中し、真のハイリスク症例受入が困難になっている。この結果、遠隔搬送・いわゆる「たらい回し」が増加している。
4)すべての医療機関が基本的にリスク回避の方向になっている。つまり、キャパシティを超えた患者受入を回避する傾向が明らかになり、産科医師数が減少する以前に、各医療機関の診療能力が低下している。
妊婦搬送拒否事件の処方箋
海野教授は2007年11月の段階で、このような警告を発していました。悲しいかな、彼の予想はことごとく適中し、一連の妊婦受け入れ拒否事件を通じて国民的なコンセンサスとなりました。では、この問題は、どのように解決すべきでしょうか。
現在、この問題の解決について、国民的な議論が進んでいますが、まだまだ結論に至るには時間がかかりそうです。二階経産大臣の発言(後日、撤回しましたが)のように「医師のモラルの問題だと思う。忙しいだの、人が足りないだのというのは言い訳にすぎない」と考えるか、高度医療機関の絶対数の不足と捉えるか、あるいは関係者のリスク回避行動の結果と捉えるかで、対応策は大きく異なってきます。
言うまでもありませんが、私はリスク回避行動の是正が最も重要だと考えています。刑事介入や民事訴訟のリスクを感じている現場の産科医に対して、二階大臣の発言のように強権的に圧力をかけても、産科医はさらに萎縮して、産科を廃業する医師が増えるだけです。事実、福島県立大野病院で産科医が逮捕されてから、多数の医師が産科を廃業し、他の診療科に「転職」したことが明らかになっています。これは、産科医にとって自らの身を守るための合理的な行動という見方も可能です。
また、高度医療機関の患者数を減らすために、地元の病院を介さなければ高度先端病院を受診できないように妊婦のフリーアクセスを制限しても、妊婦の不安を益々煽るだけで何の解決にもなりません。なぜなら、墨東病院事件、杏林大学事件のいずれにおいても、順調な妊娠経過を辿っていた妊婦が突然の合併症で亡くなったり、重い後遺症が残ったわけですから、彼女たちが高度医療機関で診てもらいたいと思うのは当然だからです。近年、高齢出産が増加しており、高齢出産では産科合併症のリスクが上がるため、このような傾向は益々顕著になるでしょう。
現在、東京都は産科病院の集約化を進めようとしていますが、もし、東京都が提唱しているように、重症妊婦受け入れ専門病院を整備した場合、どのようなことが起こるでしょうか。東京都は、この計画の詳細を明らかにしていませんが、現在の医療状況では、既に総合周産期母子医療センターに認定されている大学病院や都立病院の産科医を数名増員し、さらに病床数を増やすのが精一杯でしょう。事実、東京都立墨東病院では、産科の当直医が一人しかいなかったことが問題視されたため、当直する産科医を二人に増員しました。しかしながら、墨東病院に勤務する産科医の数が大幅に増えた訳ではありませんので、現在勤務している産科医の当直回数を月8回に増やさざるを得ませんでした。これでは、産科医の労働環境が悪化して、かえって医療の安全性が損なわれる危険性があります。
もしも、「東京都は重症妊婦受け入れ専門病院を整備した」という実情とかけ離れた情報が、様々なメディアを通じて、市民や医療関係者に配信されたら、どのような事態がおこるでしょうか。この場合、妊婦や地域の産科医の不安は何ら軽減されていませんので、このような施設に軽症から中等症の患者が殺到し、パンクしてしまうことは想像に難くありません。
妊婦と産科医の不安を解消すること
では、東京都の産科医療を再建するためには、何が必要なのでしょうか。私は、今回の妊婦搬送拒否事件は、一種の「集団的パニック状態」の結果だと考えています。妊婦は「お産難民」になることを、産科医は「刑事事件・民事訴訟」を恐れた結果、総合周産期母子医療センターに軽症や中等症の妊婦が押し寄せました。総合周産期母子医療センターで収容できない妊婦は、たらい回し状態に陥りました。一方、産科医不足が深刻なわが国で、開業医と小規模病院が分娩取扱から撤退しているのは皮肉です。このように、産科医療に関係するあらゆる人々が、みずからのリスク回避に動いた結果、患者ニーズと医療供給の間に許容しがたいミスマッチが生じてしまいました。この状況は、昨今の信用収縮による金融危機に通じるものがあり、ゲーム理論などを専攻する経済学者の研究対象にもなりえるでしょう。
この問題を解決するには、金融危機で信頼回復が重要であるのと同様に、妊婦、および産科医の不安を解消することが必須です。そのためには何をすべきか、徹底的に議論しなければなりません。政治家や行政関係者が「妊婦、産科医の皆さん、安心してください」といくら叫んでも無駄でしょう。試合で緊張してしまい、実力を発揮できない野球選手に対して、「リラックスしろ」とアドバイスするようなものです。一般論として、悪循環に陥っている状況を打開する際には、問題点の裏返しは有効な解決法にならず、全く新しい視点から物事を見直す必要があります。
徹底的な情報公開と社会の合意形成
では、私たちは具体的に何をすればいいのでしょうか。私は、妊婦搬送問題を解決する上で重要なことは、1)情報公開を徹底し、開かれた議論を通じて社会が合意を形成すること、2)医療現場での医師と患者の軋轢を軽減することだと考えています。
まず、情報公開と合意形成について議論しましょう。本連載で繰り返し説明してきましたが、情報公開と合意形成は、医療などの社会サービスを議論する上での基本です。以前にもご紹介させていただいた兵庫県立柏原病院では、小児科医師の退職騒動をきっかけに、地元のお母さんたちが「柏原病院小児科を守る会」を立ち上げ、地域医療を守りました。地域から小児科医が消える危機に直面した母親たちは、行政に陳情することではなく、地域の情報を自ら集め、熟議を繰り返し、コンセンサスを形成していきました。このようなプロセスを通じ、社会の構成員が問題点を正確に認識すれば、対策も自ずと決まってきます。「柏原病院小児科を守る会」の手法は、妊婦搬送問題を考える上でも参考になります。
医師よ、診察室から出よう
では、どのような手段を用いて、社会に情報を提供すればいいでしょうか。私たちは、情報共有の具体的な方法論について、もっと議論する必要があると考えています。
従来、医療情報の提供は、主治医が患者・家族に対して説明することが中心でした。この場合、医師は妊婦の状況や理解力にあわせて情報を提供するため、妊婦の満足度も高く、患者の治療を目的とした場合には理想的な情報伝達手段ということが出来ました。
ところが、社会への情報伝達を考えた場合、この方法には限界があります。なぜなら、医師は、医療機関を受診した人にしか情報を伝えることが出来ないため、これから出産を考えている妊婦予備軍や、一般国民に対しては無力だからです。
お産に関する社会的コンセンサスを得るには、一般国民に語りかけなければなりません。このためには、医師は診察室から出て社会に語らねばなりませんし、社会に語るためには、国民と医師をつなぐメディアとの協同が求められます。
マスメディアの果たす役割と限界
昨今、国民の医療に関する理解は飛躍的に深まりつつあると感じます。これは様々なメディアを通じて、医療に関する情報が配信されているからです。このようなメディアの中で、もっとも影響力があるのは、言うまでもなく新聞とテレビです。
新聞における医療報道については、近年、日経テレコンというデータベースが整備されたため、正確な状況を調査することが可能になりました。私たちの調べた範囲では、2006年の福島県立大野病院事件以降、分娩に関する記事が、2007年以降、医療崩壊に関する記事が急増しています。さらに、2008年に入ってからは、医療崩壊に関する記事が掲載されない日はありません。このため、医療崩壊に関しては既に国民的コンセンサスが形成されつつあるということが出来そうです。
新聞における医療報道を考える上で残念なことは、お産に関する記事の大部分が、お産にまつわる不祥事や厚生労働省記者クラブの発表に関連して取り扱われていることです。新聞は「ニュース」を報道するため、どうしても事件性がある新しいことに偏ってしまうのでしょう。この結果、お産に関する新聞報道の量が増えたわりには、お産に関する基本的な情報が国民には届いていないようです。この状況は、テレビ番組についても当てはまりそうですが、データベースが未整備なため、検証できていません。このように考えた場合、新聞・テレビの世論への影響力は絶大ですが、妊婦への情報提供において果たす役割は限られており、かつ大きなバイアスをもたらすリスクがあるということが出来そうです。
最近、テレビについては、面白い動きが見えます。それは、医療に関するドラマが急増していることです。例えば、『チームバチスタの栄光』(海堂尊原作、関西テレビ制作)や『小児救命』(テレビ朝日制作)などが、地上波のゴールデンタイムに放送されています。先日、放映された『小児救命』では、奇しくも患者のたらい回しがテーマになっていました。ドラマや映画は、新聞などの活字メディアと比較して、人間の感情や人間関係の軋轢を表現する上で有利です。このような媒体を通じて、医療問題が語られることは、国民が医療問題の複雑さを理解することに役立つでしょう。
地域密着型メディアへの期待
マスメディアを補完する可能性があるのが、ローカルメディア、フリーペーパー、ウェブなどの新しいメディアです。例えば、兵庫県立柏原病院小児科を守る会の活動では、病院と地域住民を繋いだのは丹波新聞という地域メディアでした。
マスメディアと比較して、地域メディアでは地元に密着した記事に大きな紙面を割けるために、地域の状況を具体的に説明することができます。例えば、丹波新聞は兵庫県立柏原病院の医師の異動情報はもとより、医療スタッフの人柄など、地域住民が知りたい情報を提供しました。丹波地域に存在する中規模病院はわずか3つですから、丹波新聞にとって、各病院の情報を詳細に報道することは難しくないでしょう。一方、このような報道を通じて、読者は地域の医療機関について親近感を抱くとともに、地域の医療問題に関する理解が深まるでしょう。
余談ですが、柏原病院小児科を守る会の活動を支えたのが、神戸新聞ではなく丹波新聞であったことは、新聞社のサイズと地域密着度の間の微妙な関係を示唆しています。丹波新聞は毎週二回、日曜日と木曜日に発行し、その部数は13,500部です。神戸新聞の発行部数56万部と比較して、わずか40分の1です。
東京都のお産問題を都民に伝えるのは、本来、地域メディアに期待される役割です。しかしながら、東京では、どのようなメディアが、この役割を果たすかはっきりしません。東京新聞は東京のお産問題に熱心に取り組んでいますが、発行部数60万部の東京新聞が丹波新聞と同じレベルで地域の医療情報を報道することは不可能だからです。
フリーペーパーの登場
このように、東京には小回りのきく地方新聞が存在しないのですが、その間隙を埋めるような新しいメディアが生まれつつあります。その代表例が『ロハスメディカル』です。
この媒体は、2005年に元朝日新聞記者である川口 恭氏が立ち上げた医療専門のフリーペーパーです。病院の待合室に配置され、診察を待っている患者、付き添いの家族が読みます。現在、関東圏を中心に毎月21万部が配布され、過去に何回もお産の問題を取り上げています。ちなみに、2009年1月号では「お産危機3妊娠の心得」(宋美玄 川崎医科大学講師)、「周産期医療再建!現場の声をもっと聞くべきです」(鈴木寛 参議院議員)という記事が掲載されています。いずれの記事も、お産に関する情報を正確に伝えていて、妊婦と医療者の橋渡しに役立っています。病院の長い待ち時間は、多くの患者にとって退屈、苦痛以外の何もの以外でもないでしょうから、川口氏は良いところに目をつけました。また、個人的な感想ですが、川口氏はロハスメディカルを無料で配っているからこそ、世論に媚びずに正論を言うことが出来ているような気がします。
ウェブの活用と周産期情報センター設立を!
ウェブは、医療分野においても強力な情報伝達手段です。しかしながら、お産の分野では、ウェブを用いた情報配信は不十分です。これは、妊婦の多くがウェブを利用する世代であることを考慮すれば、非常に残念なことです。
医療分野でウェブの活用が進んでいるのは、がんの分野です。2006年にがん対策基本法が制定されて以後、情報公開が飛躍的に進みました。例えば、国立がんセンターにはがん情報センターが開設され、がんの情報配信に関して徹底的に議論され、充実したがん情報が提供されるようになりました。最近では、がん治療に従事する多くの病院が、がん情報センターのHPにリンクするようになり、がん情報センターのHPがハブ化しつつあります。このようなサイトが確立したことは、がん患者や医療者にとってがん情報へのアクセスを容易にしました。
現在、がん情報センターが取り組もうとしているには、携帯電話での情報配信です。このような方法が普及すれば、患者は病院の待合いや勤務先、あるいは交通機関の中でがん情報にアクセスすることが可能になり、その利便性は飛躍的に向上します。ちなみに、がん情報センターの予算は年間16億円程度ですが、これまでの働きは十分に評価できるものです。
産科領域での情報公開を考えた場合、ウェブの利用はもっと議論されるべきです。現在、舛添厚労大臣がIT、特に携帯電話を用いたお産情報の公開を提唱し、経産省と厚労省の合同プロジェクトとして進んでいます。しかしながら、これだけでは不十分です。個人的には、がん医療に倣って『お産情報センター』を創設し、お産情報の配信を強化することを考慮すべきだと考えています。現時点では、ジャーナリズム、アカデミズム、さらに行政機関も、お産に関する情報戦略を軽視しており、それが問題の解決を遅らせています。お産の情報公開、情報配信には、もっと予算をつけて、集中的に取り組むべきです。
今回は、妊婦と産科医の不安を解消するためには、正確な情報を適切に公開し、関係者の合意を形成することの重要性を紹介させていただきました。医療界では、さまざまなメディアによる情報ネットワーク化が急速に進みつつあり、情報開示の方法が確立されつつあります。このような社会インフラは、産科に限らず、多くの医療問題の解決に大きく貢献するでしょう。
次回、産科医と妊婦の軋轢を解消するための、具体的な施策について紹介させていただきます。